小鳥遊 遊鳥の裏通り

La Vérité sortant du puits.

天竺のようなもの

失われた「約束の地」

  非常に不謹慎ながら、「陥落」という言葉には、普段の生活の中では、ポリ塩化ビニリデン(PVDC)フィルム(商品名「サランラップ」)にぐるぐる巻きに巻いて冷凍保存しているカタストロフィへの暗い渇望と歪んだ憧憬を呼び起こすものがある。「感動」を押し売りする国際商業スポーツイベントが案の定、残尿感を伴う形で幕を閉じ、ようやくおとなしい盛夏を迎えられると思ったのも束の間、中央アジアで心をざわつかせる歴史的なイベントが進行していた。

 カブール並びにアフガニスタンという名前をテレビから初めて聞いたのは、確か小学生高学年の頃。TBSの朝の情報番組における看板企画の中においてであった。ワンボックスカーでユーラシア大陸を横断するというその旅の途中、芥子の花咲く街、葡萄と瑠璃(ラピスラズリ)の採れる国と紹介されていたように記憶している。貧しいけれども、実にたおやか……。前後の放送回に紹介されたであろうイランやパキスタンのコーナーはまったく印象に残っていないのに、不思議とこの回だけが、今でいう所の「心に刺さった」。数年後に起きたソ連によるアフガニスタン侵攻時のニュース映像とのギャップが余りに大きかったため、脳の中で上位にファイリングされたのかも知れない。

 続く刷り込みは、前世紀末にバックパッカーたちのバイブルとなった沢木耕太郎著『深夜特急』の中での記述だ。混沌極まるインド、心静まらないパキスタンから陸路、カイバル峠を抜けてアフガニスタンに向かわんとする著者は、バスの車窓に広がる硬質な風景に心を打たれる。「鋭く切り立った崖が、果てしない壁のように続く奇勝。やがてそこを脱すると澄んだ水が流れる谷間の壁に遭遇する。さらに上流に向かって進んでいくと、透明な水をたたえた湖がある。東南アジアからインドにかけての泥のような水しかみられなかった眼には、動悸が激しくなるほどの新鮮さがあった」。そして辿り着いたカブールは、欧州からアジアへ、あるいはアジアから欧州へと向かうヒッピーたちがここで落ち合い、情報や友情を交換するユーラシア大陸のへそのような街であったようだ。

  同書に初めて触れたのは、大学の図書館における立ち読みだった。新刊紹介のコーナーに、たまたま置かれていた真新しい単行本を手に取るや、たちまち引き込まれ、図書館を訪れた本来の目的を忘れた。自分もシルクロードを旅して『深夜特急』を追体験したいと強く願ったが、仮に渡航費用が工面できたとしても、当時すでに、紛争は泥沼の状況に陥っており、民間人の入国は事実上不可能だった(88年に公開された『ランボー3/怒りのアフガン』という出鱈目な映画も、同国でのロケは許可されず、他の地で撮影されたらしい)。それでもいつかは、と思っているうちに、今度はアメリカ軍が「9.11」の報復戦争をおっぱじめ、結果として、20年がかりで同国の社会インフラを破壊し尽くした。今般、ターリバーンが全土を掌握し、部族連合体のような体制が形作られたとしても、映像と文字が記録したソ連侵攻前の社会に戻ることはほぼないだろう。

 少々大袈裟かも知れないが、アフガニスタンは、そしてカブールは、永久に失われた少年時代の「約束の地」となった。冒頭述べた陥落に付随する感情に、続いて襲ってきた大きな喪失感を、上手く表現できる言葉が見つかっていない。

 

 

 

マルビナス戦争のようなもの

バンドネオンの調べが聞こえる

 今から40年程前に、地球の反対側で起きたマルビナス戦争フォークランド戦争)を、メディアを通じて当時リアルタイムに見聞きした人も、徐々に少数派となりつつあるようだ。南大西洋の果てに浮かぶ群島の領有権を巡って、旧大英帝国アルゼンチン共和国がおよそ3カ月間に亘って陸・海・空で争った。ませたミリオタであった小生は、外電で伝わる戦いの趨勢をしたり顔で中学校の同級生らに語ったりしていたが、もしタイムマシンがあって1982年春に戻れるのなら、39年前の自分を「何を偉そうに!」と激しくどやしつけたい気分である。

 同戦争の日本語での総括に関しては、2014年に防衛省防衛研究所がまとめた「フォークランド戦争史」が詳しい。たまたまアルゼンチンに関する調べものがあって、いわゆるオープンソースインテリジェンスをしていたところ(←何を偉そうに!)、同資料に当たったという次第である。そして改めてマルビナス戦争の背景や推移、その後の政治・社会に与えた影響などを知るに及び、ませたミリオタというのは百害あって一利なしの存在なのだなとの思いを強くした(因みに、ませたミリオタにデッドコピーを重ねると、いわゆるネトウヨになるようだ)。

 周知の通り、この戦争は大英帝国側の勝利というか、アルゼンチン共和国側の戦線・戦意の自壊によって幕を閉じた。まず、開戦動機が正当性を欠いていた。81年に共和国大統領に就任したレオポルド・フォルトゥナート・ガルチェリ・カスティッリが、権力の階段を昇る途中で為した政治活動家や学生、ジャーナリストへの弾圧と、その結果としての国民の分断という負の部分を隠蔽すると同時に、政治的求心力を即席的に高めようとして、「アルゼンチン国民の支持が高いマルビナス(フォークランド)諸島の奪還を計画し、実行に移した」ものとされる。加えてレオポルドは、大英帝国が軍事力を行使してくるとは予測せず、当然、大英帝国の反攻に対する具体的計画は一切持ち合わせていなかった。国際社会は自国に味方するだろうとの科学的根拠に薄い期待を重ねる一方で、大英帝国の侵攻を阻止するかについて、殆ど対策を考えていなかった。これでは仮に勝てる戦いであったとしても、勝利などおぼつかない(←何を偉そうに!)。

 しかし、歴史の女神クリオはなかなかどうして、皮肉屋のようだ。当時、「日出ずる国」とイキっていた極東の弧状列島帝国を率いる眼付きの悪い陰気な為政者に、只今史上2度目の、つまりは喜劇的な色彩を帯びる振る舞いをさせようとしているからだ。「改革」という耳障りの良い言葉で糊塗してきたクレプトクラシー(泥棒政治)が、流石にごまかせなくなってきた時に、たまたま重なった目下の東京五輪。世界中のヘルスケアセクターが開催自体に深い懸念を示しているのを軽視し、「コロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す」(丸川珠代五輪相)などと甘言を重ね、金メダルがもたらす安っぽいナショナリズムに酔わせることで失政と不正とを覆い隠すことに躍起になっている。本人たちにとっても自衛隊と警察という「暴力装置」(マックス・ウェーバー)を意のままに動かし、ボランティアと称する志願兵を動員することで得られる権力の陶酔感は格別のものなのだろう。テレビをご覧。完全にシャブ中の眼差しだ。とはいえ、五輪という名の疑似戦争ごっこは2週間余りで終わりが来る。「勝った!勝った!」との酔いが醒めれば、COVID-19というラスボスが無傷のまま、手ぐすねして立っている「現実」に眼付きの悪い陰気な為政者も向き合わざるを得ないだろう(←何を偉そうに!)。

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 大英帝国に屈したアルゼンチン共和国はその後、政治・経済両面における混乱の振れ幅を増し、「安定」は、世紀を跨いだ今日になっても一向に実現していないことは良く知られている。“黒いアルゼンチンタンゴ”を踊り続けている。昨年5月には通算9回目のデフォルト(債務不履行)に陥った記憶も新しい。果たして、ブエノスアイレスからおよそ1万3000㎞離れた東京にも、不気味なバンドネオンの調べが届き始めている。

 

 

大きな江の島のようなもの

陰翳礼讃

 いわゆる“世界三大がっかり”と言われているブリュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫、シンガポールマーライオン。幸か不幸か、実際にこの目で見たことがあるのは小便小僧にとどまっているが、人気と実力の最低水準をある程度「担保」しているはずの世界遺産も、なかなかどうしてハズレがあるから油断がならない。パリと並んでフランス共和国を代表する観光地であるモンサンミッシェルも、個人的には「残念」という感情の方が大きかった。

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 大天使ミカエルに因むカトリックの聖地との触れ込みをもとに、霊験あらたかなものを期待して訪れると、まず、島の入口から、安いファストファッションに身を包んだ世界各国からのツーリストたちの喧騒に直面して鼻白むに違いない。修道院へと続く狭い参道に軒を連ねる土産物屋や飲食店は、カルテルでも結んでいるのかと疑わざるをえないほど、チープな物品やお仕着せのメニューばかりが目に入り、この辺りで多くの人は、「あれ、自分。間違ったところに来ちゃったかな?」と自省を始めるものと思われる。そして、徐々に重くなる心と足の歩みに打ち勝って、何とか辿り着いた修道院の内部は、建物こそ壮大なつくりで驚きがあるものの、色彩や内部装飾に押し並べて乏しく、案内板に沿って薄暗い通路や階段を昇り降りさせられた挙句、最後は、あの忌むべき参道に程近い出口にリリースされる塩梅だ。感受性が豊かな人ならばここで確実に、東京ディズニーランドの「シンデレラ城ミステリーツアー」が提供するワクワク・ドキドキの体験と脳裏で比較して、その落差のあまりに泣き崩れてしまうものと想像する。

 

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 再び幸か不幸か、自分はもともと豊かな感受性を持ち合わせていなかったがゆえ、「騙されたな!」と、“とろ火”状の怒りを短期間意識しただけで済ませることができた。想像するに、子どもたちも「満たされない何か」を感じていたのであろう、島を去る際に振り返りしな、聳え立つ修道院を見上げると、近傍からの遠足の生徒たちが崖の下に向かって競い合いながら唾を飛ばしていた。入島以来探し求めていた「聖なるもの」のイコンが、どこにもないということをまじまじと見せつけられた瞬間だった。学童の悪ふざけがたまたまの巡り合わせであったにせよ、何とも罪作りな世界遺産だといえるのではなかろうか。帰国後も、テレビの観光番組等で取り上げられるたびに、「商業マスメディアに騙されてはいかんぞ」と念を送ったりしていたものだが、コロナ禍の今となっては、もちろんすべてが懐かしい。

 日本のバックパッカーたちの間では“大きな江の島”とも揶揄されるモンサンミッシェルの魅力は、ツーリストたちが去り、夜のとばりが下り始めて以降でないと分からない。夜通し鳴る、刻を告げる重い鐘の音。通奏低温のように続く潮の騒めき。そして、夜が明け始めるや、輪唱のように押し寄せる鳥たちの鳴き声……。再び観光客がドッと押し寄せるまでの、束の間の「明鏡止水」を、島内に泊まった人だけが全身で以って味わえる。馬鹿高い島内の宿への宿泊を強要され、あまり美味しくないオムレツを口にすることになっても、それは、余りある貴重な経験となるに違いない。

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 してみると、ハイシーズンを迎えているホンモノの江ノ島も、泊まってみれば、手垢にまみれていない新鮮な発見があるかも知れない。レトロなホテルもあるらしい。そんなひねくれた旅も、偶にはいいかなと、改めて思っている。

 

 

行ってはいけない世界遺産

行ってはいけない世界遺産

Amazon

 

渋谷のようなもの

日沈む国を訪れて…

 書棚を整理していたら、30年前の古いパスポートが出てきた。仕事で思いがけずベルリンとブリュッセルに行く用事ができ、当時住んでいた千葉県に申請手続きを行い、発行したことをやにわに思い出した。ちょうど、冷戦の終結でシベリア上空の飛行が可能となり、南回りはもちろん、アンカレッジ経由と比べても欧州が、またぐんと近くなった直後だった。

この時の業務渡航の経験に味を占め、さほど間を置かず、今度はプライベートで訪れた最初の欧州が、“日沈む国”と一部で揶揄されていたポルトガルだった(言うまでもなく今日では、自称・日出る国の方が日沈む国になりつつある)。円は強かったが、ドイツマルクと比べればやや劣勢。フランスフランも結構頑張っていた。必然、イタリアリラやスペインペセタ、そしてポルトガルエスクードといった弱小通貨が使える南欧諸国を対象とするなか、「裏通り」に相応しく、ユーラシア大陸から大国スペインに押され、零れ落ちそうになっている老共和国を選んだ。

 成田から、マドリッドでの空港“ベンチ泊”を挟み、およそ28時間かけて到着した首都リスボンの最初の印象は、「何とも埃っぽい街だな」というものであった。関東南部の赤土に慣れた目にとって、イベリア半島の果ての土は実態以上に白く映るということに気付くのに、そう時間はかからなかった。飛び込みで見付けたロッシオ駅裏の格安ペンションの、ややかび臭いベッドに荷物とともに身体を放り投げ、染みが目立つ天井を見上げた時、ニッポンのしがらみからようやく自由になれた思いがした。

 その後ポルトガルへは、2~3年おきに出かけるまでに気に入り、「日本ポルトガル協会」の会員名簿の末席に名前を載せたこともあった。しかし残念なことに、2005年を最後に足が遠のいてしまっている。再訪への意志は固いのだが、日本からの直行便がないこともあり、限りある休暇のなかで訪れるにはやはり、遠い。リスボンの街のざわめきや匂いの記憶も、さすがに薄れつつある昨今である。

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因みに、リスボンという街の魅力は「坂」に尽きる、と考えている。旧市街地で、平らなエリアはテージョ川に面したコメルシオ広場とその周囲のみ。その一角を外れると、どこに向かおうとしてもたちまち心臓破りの坂道あるいは階段が現れる。それらを前にして、ため息を付く人はリスボンのまだ素人である。2~3日を過ごし、それらが苦にならなくなってきたら、ようやく“リスボン道”の初級に入門したことになる。クレジットカードのCMに登場したことで、リスボンのアイコンになった黄色いケーブルカーを侮蔑するようになったら中級。坂道と階段の2コースがあった場合に、迷うもなく後者を選ぶ身となれば上級クラス入りだ。そして、地元の人と猫しか通らないような胸突き八丁の路地を、渇望を帯びて探し求めるようになった時、あなたは晴れて“リスボン病”に認定される。

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 “リスボン病”の厄介なところは、時と場所を選ばす発症することにある。例えば渋谷。地下5階に位置する東京メトロの渋谷駅から、エスカレーターなどという人を堕落させるマシーンを使わず、ハチ公前、センター街、井の頭通り、スペイン坂、公園通りを抜け、改装なった渋谷区役所新庁舎の地上15階「スペース428」まで嬉々として行けてしまう。遺憾ながら、治療薬はない。

いずれにせよ、リスボンには不思議な魔力がある、ことは古今東西変わらないようだ。下の本も、久々に、良い読書体験を得ることができた。終わり。

 

 

 

 

パンとサーカスのようなもの

国民の過半が望んでいない、の祭典

国民の過半が望んでいない東京五輪の開会予定日まで、あと1か月と1日。明日からは、通勤経路として毎日使っている豊洲大橋から黎明橋に至る環二通りが2カ月半近くに亘って封鎖され、原則、“ぼったくり男爵”を始めとする大会関係者の車両のみが通行できる専用道と化す。その「お知らせ」を告げる捨て看板が、環二通り周辺の至る所に建てられている。

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期間中、選手村として使われる予定の建物群は、国民の過半が望んでいないという状況を、治安当局も十二分に認識しているのだろう。放火その他のいたずらがあってはならないと、24時間体制での有人警備が実施されており、選手村のエリアを長々と覗いていると、刺すような視線をガードマンらから浴びることになる。

五輪の選手村を巡る事件としては、1972年のミュンヘン五輪時に起きたパレスチナ武装組織「黒い九月」によるイスラエル選手団らへのテロが記憶に新しいところだが、今回は、何しろ、国民の過半が望んでいない分裂状態の中で迎える隙だらけの大会だ。AK47を使わなくても、サイバー攻撃だけで、相応のダメージを与えることが可能だろうと想像する。

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そうでなくてもこの小さな一角に、身体能力だけはずば抜けた連中が世界中から蝟集し、NYCを上回る濃厚な人種のるつぼが生じるわけで、下手すると、COVID-19を超えるシン・新型コロナウイルスCOVID-21(通称、晴海ウイルス)が誕生してしまう恐れも否定できない。国民の過半が望んでいない黒い祭典に、KAMIKAZE的に突き進む自公政権は、もしそうなった時、どう落とし前をつけるのかしらん。

                  *  

そうした中で、ふと蘇ったのが、ジェームズ・キャメロン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『タイタニック』(1997年)において、E・J・スミス船長と、タイタニック号を建造したホワイト・スターライン社のブルース・イスメイ社長との間で交わされた印象的なセリフ。「予定より早く到着すれば、新聞のヘッドライン(一面トップ)を飾れますぞ」とイスメイ社長よりそそのかされ、予想されるリスクに敢えて目をつぶり、船の速度を上げて夜の北大西洋を突っ切ろうとしたスミス船長。案の定、氷山にぶつかり沈むことが避けられないと分かった時、イスメイ社長に返した皮肉だ。

Smith: Well, I believe you may get your headlines, Mr. Ismay.

スミス船長「やれ、一面トップを飾ることになりましたな、イスメイさん」

やがて、東京五輪の関係者の間でも、こんな残念なやり取りがなされることになる、という予測の方に、1億ジンバブエドルでも賭けておくか。

 

 

 

創世記のようなもの

はじめに、ことばありき 

ガイウス・ユリウス・カエサルが、「ブルータス、お前もか」(Et tu, Brute?)という最期の言葉を遺したのは56歳の時だった、と最近知った。奇しくも、同い年ではないか。


これ以外にも、「賽は投げられた」(alea jacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) など、生涯に、多くの名言を残したとされるユリウス・カエサル。では彼が、この世で最初に発した言葉は何であったのだろうかと、疑問に思い調べてみたのだが、短い時間しかなかったということもあり、日本語の文献内では見つけられなかった。

今回、拙「裏通り」をスタートするに当たり、著名なブログの“最初のことば”は、いかように綴られているものなのかと覗いてみた。面白いものはパクってしまおうという邪な気持ちがあったことを、否定はしない。しかし結論は、当然のことながら百人百様だった。

さればと、これから続くであろう「どうでもいい話」の初回くらいは、格式をもたせなければならないと考え、たまたま同い年という以外、縁も所縁もない紀元前44年に亡くなった古代ローマを代表する軍人・文人に、箔付けのため無理してご登場いただいたという次第なのだ。ホント申し訳ない。

ということで、下の写真はフランス「新古典派」の巨匠ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme)描いた≪カエサルの死≫である。

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明治維新以降、「印象派」ばかりが注目・評価される本邦において、「新古典派」の仕事が大名鼎鼎される日は、果たしてやってくるかしらん?