小鳥遊 遊鳥の裏通り

La Vérité sortant du puits.

スイス・アルプスの天然水のようなもの

「下水道」は100年前からありき

 

  「やれやれ、またドイツか」との独白で始まる村上春樹の小説「ノルウェイの森」。年末年始の短い休みを利用した蔵書(と語るのもおこがましいレベルなのだが…)の虫干しの最中に、何の気なしに久しぶりに開いたら、最初の数ページで手が止まってしまった。緑内障の悪化で、やや黄ばんだ紙の上に踊る細めの明朝体の文字がいたく読み辛くなったということもさることながら、これまで、幾度となく読み返しながらも見落としてきた明確な「符号」を忽ち本文中に見つけてしまい、自分の読解力の“ザルっぷり”に、とんと嫌気がさしたという点が、より大きい。

 

どこの書店で買ったのかは思い出せないが、一応、初版本であった。

  「ノルウェイの森」は周知の通り、ルフトハンザのジャンボ機に搭乗した主人公のワタナベトオルくんがハンブルク空港に着陸し、機内で流れるどこかのオーケストラが甘く奏でる≪Norwegian Wood≫のBGMに不意に心をかき乱されるシーンをきっかけとして、ふた昔前の学生時代が大回想されるという小説だ。その中では、「100パーセントの恋愛小説」なる村上春樹自身によるキャッチフレーズがアイロニーとしか思えないほど、「僕」と直子、キズキ、緑らを巡るディスコミュニケーションタペストリーのように織られている。登場人物同士で心が通じ合うというシーンが、最後まで出てこなかったと記憶している。併せて同書に関しては、心を病んで京都の洛北にあるらしい療養所に入居した直子をワタナベくんが見舞う際、トーマス・マンの「魔の山」を持参したというベタでワザとらしい挿話などを根拠に、「ノルウェイの森」と「魔の山」とのビルドゥングスロマン的な相似性が、以前から指摘されている。

 

 そうした中、この度、遅ればせながら「発見」してしまったのは、これまで読み飛ばしていた「ハンブルク」という地名だった。何のことはない、「魔の山」の主人公であるハンス・カストルプはハンブルクの生まれで、ハンブルクの造船会社に内定が決まった青年という設定であったではないか! いくらルフトハンザのドイツ国内路線網が昔から充実しているとは言え、1986年当時はまだ新鋭の大型機であったB-747をフランクフルト・アム・マインでなく、ハンブルク程度の規模の都市に就航させることは考えにくい。小説内の創作だという前提を差し引いても、違和感は当初から感じていたのに、そこに作者の明確過ぎるメッセージを感じとることなく、看過してしまっていた。ハンスに劣らない凡庸ぶりである。実になさけない。

 

 というような顛末から、「ノルウェイの森」の読書は、さらなる読み飛ばしの発覚による自己嫌悪が年末年始に連発することを恐れて、そそくさと止めてしまった(今度、同書を開く時はいつだろう)。その代わり、と言ってはもっと問題であるが、より黴臭く、緑内障にも一層厳しい「魔の山」を本棚の奥から取り出してみた(因みに今年は、「魔の山」が1924年に刊行されてからちょうど100年に当たるそうだ)。読書量をとにかく増やそうという不埒な気持ちで、最初にこの本を手に取ったのは確か、高校生の頃であった。就職前の物見遊山の気持ちで従兄をスイス・ダボスの国際サナトリウムを訪れたハンスが、自身も結核に罹っていることが分かり、図らずも7年間もダボスに留まるという物語のフレームの中で、当時の欧州を覆っていた様々な思想・文化・風俗を象徴する個性豊かな人物たちに日々感化されつつ、あるいは反発しつつ、本当に人格・教養の「成長」をみたのかどうかもわからないまま、最後は、第一次世界大戦を象徴する塹壕戦を戦う多数の歩兵の1人として、「死と肉体の放縦との中から愛の夢がほのぼのと誕生するのを経験した」ことを小さな勲章に抱いて硝煙の中に消えていく……。最終節に「青天の霹靂」と銘打ちながら、盛り上がりに欠く尻切れトンボのような物語の結末に、消化不良を大いに感じたのを覚えている。だが、実際のところは、マンが「魔の山」で描こうとした欧州の(≒世界の)知的混乱の深刻さを幼い10代後半の未熟な頭で全く消化できないまま排出した挙句、「美味しくないじゃないか」とばかりに不満を述べた子どもの反応そのものに過ぎなかったのだ。

 

 

 さすがに今回は、アラ還にそろそろ達しようかという歳月の積み重ねが一応こちらにもあり、さらに、足元で進むイスラエルによるガザの虐殺(これでユダヤの民は、20世紀半ばに貯金した民族的な憐憫と同情と尊敬を全て失った)と、それを前に白々しく展開される米英両国の二枚舌などを目の当たりにしたため、マンがこの長編小説を通じて描こうとした人と神の間に存在する「人間性」の不確かさと危機とが、相応に刺さるようになった(と受け止めている)。とりわけ西欧の文明文化を代表し、合理主義と進歩主義を信奉するイタリア人のロドヴィコ・セテムブリーニ氏と、イエズス会士で全体主義を支持するユダヤ人のレオ・ナフタ氏が作中、何度も繰り広げる大論争の模様は、21世紀の「X」(旧Twitter)におけるそれを想起させるような騒がしさであり、結局のところ人類は、20世紀の初頭の思想的混乱を、ちょうど中東の地や東ヨーロッパの大平原での惨劇が証明したように、一世紀が経っても、ちっとも克服できていないという残念な現実へと思い至らせる。

 

 否、正しくは、変わっていないと言うよりは、むしろ悪化していると言った方が良いかもしれない。「X」を、「憎悪や偽情報を広めることで民主主義を破壊する『巨大な世界規模の下水道』」と例えたのはパリのアンヌ・イダルゴ市長であったが、その例えを流用すれば、下衆と三下が大きな顔をしている日本の「X」は、流れすらない淀んだ腐敗槽(セプティック・タンク)に当たろう。それらに比べれば、セテムブリーニ氏とナフタ氏の議論は仮に大炎上したとしても、スイス・アルプスの天然上水レベルの上品さにとどまろうと言うものだ。いずれにせよハンスは、気がつくと、戦場にいた。それは、近未来の自分たちの姿かも知れない。「私たちはどこにいるのだろう? あればなんだろう? 私たちは夢にどこへつられてこられたのだろう?」。ハンスを描きながらもこう戸惑う「魔の山」の語り手の姿は、「ノルウェイの森」の最終節、上野駅構内と想像する電話ボックスの中から緑に電話を掛けておきながら、自分の居場所を正しく認識できず、「僕は今どこにいるのだ?」「いったいここはどこなんだ?」と狼狽する「僕」の描写と、これまた奇妙に重なる。これだから小説というものは面白い。まずは眼球ときめ細かく相談しながら、今年は、マンの主要作品を読み直してみることにしよう。

 

「国家崩壊を神話的に描く、二十一世紀の『魔の山』」と称される ルッツ・ザイラー 著の「クルーゾー」も忘れないうちに買ってみた。