小鳥遊 遊鳥の裏通り

La Vérité sortant du puits.

Heysei! JUMPのようなもの

勝手にゲシュタルト崩壊しない!

 俄かに、若い世代の昭和ブームを語るのがブームらしい。64年に及ぶ当該時代の後半3分の1ほどを経験した身からすると、昭和の醍醐味は、軽工業国家のくせして国としての自我を病的に増長させた挙句、全世界を相手に始めた大戦争にこっぴどく負け、とりあえず土下座をして謝ることにした1945年8月を重心点とする前後15年くらいにあると思うのだが、いわゆるZ世代の関心は、各種報道によると、当然ながら、あまりそこにはないようだ。むしろ、平成不況の予兆とも言える80年代以降の低成長時代が定着し、モノが満ち足り、そのフレームの中からあふれて行き場を失った最後のエネルギーが作り出した文化・風俗・技術・デザイン・トレンドの方に、熱視線が送られている。当時の我々が、クールでポップで最先端なものと認識していた事象が、すべからく、“ぶさかわ”ならぬ“ふるかわ”(ちょっと古くてかわいい)なものへと変容し、刺さっているようである。

 

 しかし、そんな彼らが、昭和レトロだからといって、絶対に受け入れないであろうと確信するものが2つある。「痰壺」と「畳敷きの賃貸アパート」だ。前者については、平成17年に結核予防法施行細則が改正されるまで、政府が、結核菌の温床となる痰や唾を撒き散らかさないよう、駅など人の集まる場所に痰壺の設置を義務付けてきた関係で、記憶している昭和生まれ(但し、中期ロットまで)も多いことだろう。実際、平成の初期の頃になっても、山手線などのホームの柱のふもとには、上部に漏斗状の受け皿が付いたホーロー引きのご神体の壺(といっても旧統一教会のそれではない)が置かれており、電車を待つ間、おっさんが「カッー、ペッ」とやる場面を冬季を中心に、しばし目にすることができた。達人になると、普通に歩きながら漏斗の中央に空いたシュバルツシルト面に向けてストライクをはめることができる半面、ビギナーがイキってそれを真似たりすると、折からホームに侵入してきた電車の風圧により、口から勢いよく放出された薄黄緑色の半ゲル状の物体がUターンし、図らずも、自身のズボンの裾に着弾するという香しい場面にも遭遇できた。もし、痰飛ばしの世界大会があったのなら、上位に食い込むこと間違いなしと思われる逸材に、筆者も学生の頃、日暮里駅でしばし出合ったことがある。だが残念哉、上記の法改正により瞬く間に世の中から痰壺は姿を消し、痰飛ばしのスプリンターたちもその実力が称えられることなく、静かに、プラットフォームという晴れ舞台を去っていった(ここで、中島みゆきの「地上の星」が流れ出す)

 

地上の星

地上の星

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 痰壺(←しつこい。食事中の読者には申し訳ない)の消滅を遺憾と称するならば、畳敷きのアバートの激減はジェノサイドと例えても過言ではないだろう。昭和の最末期に至るまで、独り暮らし用の賃貸物件と言えば畳敷きの仕様が当たり前であった。筆者も実家を出て、初めて暮らした都内某所のアパートは、「サンロイヤル●●山」というヤマザキパンの食パンのような枕詞が冠された物件であったが(あっ、今年も点数券を集めて「白いお皿」をもらわないと)、こちらも残念哉、言葉(=シニフィアン)の指し示す意味を最大限に好意的に解釈しても、「サン」にも「ロイヤル」にも似つかない(=シニフィエ)北向きの木造2階建ての物件だった。身体をL字形には伸ばせないそれこそ壺のような風呂に、ガスが一口しかない台所、そしてお決まりの湿った畳が敷かれた6畳1間という構成で、それでも駅チカ物件とあって家賃は月7万5000円もした。せめてもの「抵抗」として、ベルギー産のカーペットを奮発して畳を隠してみたものの、程なく、酔って夜間に転がり込んできた悪友の寝ゲロに遭って泣く泣く、燃えないゴミとしての廃棄を強いられた。今度引っ越す時は、フローリングという名の板の間のマンションに移るぞと、心に固く誓うきっかけとなったことは、ここで改めて語るまでもないだろう。

 

 ところが、である。2年後に移り住んだ「アムール●●寿」という物件は、接道義務をギリギリでクリアした立地であったということが暗示するように、これまたamourという言葉が裸足で逃げて行きそうな有り様だった。念願が叶ってフローリングの間へとステップアップはできたものの、日陰に強いはずのアイビーすら枯れるという日照条件であったのだ。すると何が起きるのか? 聡明な読者にはお判りであろう。tinea pedisの発症である。白癬菌の奴らにとって、日差しの乏しい板の間は格好の寒天培地となった。そこを素足で歩くという行為は、丸腰のままウクライナ戦線を目指すロシアの愚かな志願兵のようなものである。待ち受けるのは圧倒的な後悔の念に他ならない。ちなみに「アムール●●寿」の102号室でお近づきになったtrichophyton fungusは、今もなお、筆者の下肢の末端部分に営巣地を築いている。畳表に使われるイ草には、白癬菌などに対する抗菌機能があると知ったのは、それからしばらく経った頃。「フローリングの増加で、実は水虫薬が伸びているんですよ」と、にやりと笑った某製薬会社の広報氏の口からだった。

 

 してみると、昭和から平成へ、我々は結核菌には辛勝したものの、白癬菌には惨敗し、さらに付け加えれば、令和の世には菌より下等な新型コロナウイルス徳俵寸前にまで追い込まれたということになる…………。あれ、“ふるかわ”を格調高く語るはずだったのに、今や、何を書こうとしているのか分らなくなってきたぞ…。これでは作画崩壊ならぬ作文崩壊ではないか。予期せぬゲシュタルト崩壊に直面してしまったようだ(今度は、加古隆の「パリは燃えているか」が流れ出す)。うーむ。

 

 

 言い訳じみたことを述べると、実は昔から、春先は、メンタルもフィジカルも集中力も不思議と弱くなる傾向がある。しかも今年は眼球の劣化も加わって、なかなか厳しいものを感じている。あるいは男の更年期障害か? はたまた、新規認知症治療薬「レケンビ」の投与がいよいよ必要になってきたのかも知れない。いずれにせよ、結論に向け、書き連ねることがしんどくなってしまった。痰壺と水虫についてはもっと深掘りしたい気持ちがあるのだが、そろそろこの駄文を打ち切る潮時が来たようだ。

 

 オレタチの昭和がホビーとして消費されていく時代。しかもこのところ、昭和を代表したいろんな人たちが相次いでこの世を去っていく。昨春とは質的に違う寂寥を前にして、「咳をしても 一人」(尾崎放哉)、あるいは「からす泣いて 私もひとり」(種田山頭火)か。

 

                                  (おわり)

 

 

スイス・アルプスの天然水のようなもの

「下水道」は100年前からありき

 

  「やれやれ、またドイツか」との独白で始まる村上春樹の小説「ノルウェイの森」。年末年始の短い休みを利用した蔵書(と語るのもおこがましいレベルなのだが…)の虫干しの最中に、何の気なしに久しぶりに開いたら、最初の数ページで手が止まってしまった。緑内障の悪化で、やや黄ばんだ紙の上に踊る細めの明朝体の文字がいたく読み辛くなったということもさることながら、これまで、幾度となく読み返しながらも見落としてきた明確な「符号」を忽ち本文中に見つけてしまい、自分の読解力の“ザルっぷり”に、とんと嫌気がさしたという点が、より大きい。

 

どこの書店で買ったのかは思い出せないが、一応、初版本であった。

  「ノルウェイの森」は周知の通り、ルフトハンザのジャンボ機に搭乗した主人公のワタナベトオルくんがハンブルク空港に着陸し、機内で流れるどこかのオーケストラが甘く奏でる≪Norwegian Wood≫のBGMに不意に心をかき乱されるシーンをきっかけとして、ふた昔前の学生時代が大回想されるという小説だ。その中では、「100パーセントの恋愛小説」なる村上春樹自身によるキャッチフレーズがアイロニーとしか思えないほど、「僕」と直子、キズキ、緑らを巡るディスコミュニケーションタペストリーのように織られている。登場人物同士で心が通じ合うというシーンが、最後まで出てこなかったと記憶している。併せて同書に関しては、心を病んで京都の洛北にあるらしい療養所に入居した直子をワタナベくんが見舞う際、トーマス・マンの「魔の山」を持参したというベタでワザとらしい挿話などを根拠に、「ノルウェイの森」と「魔の山」とのビルドゥングスロマン的な相似性が、以前から指摘されている。

 

 そうした中、この度、遅ればせながら「発見」してしまったのは、これまで読み飛ばしていた「ハンブルク」という地名だった。何のことはない、「魔の山」の主人公であるハンス・カストルプはハンブルクの生まれで、ハンブルクの造船会社に内定が決まった青年という設定であったではないか! いくらルフトハンザのドイツ国内路線網が昔から充実しているとは言え、1986年当時はまだ新鋭の大型機であったB-747をフランクフルト・アム・マインでなく、ハンブルク程度の規模の都市に就航させることは考えにくい。小説内の創作だという前提を差し引いても、違和感は当初から感じていたのに、そこに作者の明確過ぎるメッセージを感じとることなく、看過してしまっていた。ハンスに劣らない凡庸ぶりである。実になさけない。

 

 というような顛末から、「ノルウェイの森」の読書は、さらなる読み飛ばしの発覚による自己嫌悪が年末年始に連発することを恐れて、そそくさと止めてしまった(今度、同書を開く時はいつだろう)。その代わり、と言ってはもっと問題であるが、より黴臭く、緑内障にも一層厳しい「魔の山」を本棚の奥から取り出してみた(因みに今年は、「魔の山」が1924年に刊行されてからちょうど100年に当たるそうだ)。読書量をとにかく増やそうという不埒な気持ちで、最初にこの本を手に取ったのは確か、高校生の頃であった。就職前の物見遊山の気持ちで従兄をスイス・ダボスの国際サナトリウムを訪れたハンスが、自身も結核に罹っていることが分かり、図らずも7年間もダボスに留まるという物語のフレームの中で、当時の欧州を覆っていた様々な思想・文化・風俗を象徴する個性豊かな人物たちに日々感化されつつ、あるいは反発しつつ、本当に人格・教養の「成長」をみたのかどうかもわからないまま、最後は、第一次世界大戦を象徴する塹壕戦を戦う多数の歩兵の1人として、「死と肉体の放縦との中から愛の夢がほのぼのと誕生するのを経験した」ことを小さな勲章に抱いて硝煙の中に消えていく……。最終節に「青天の霹靂」と銘打ちながら、盛り上がりに欠く尻切れトンボのような物語の結末に、消化不良を大いに感じたのを覚えている。だが、実際のところは、マンが「魔の山」で描こうとした欧州の(≒世界の)知的混乱の深刻さを幼い10代後半の未熟な頭で全く消化できないまま排出した挙句、「美味しくないじゃないか」とばかりに不満を述べた子どもの反応そのものに過ぎなかったのだ。

 

 

 さすがに今回は、アラ還にそろそろ達しようかという歳月の積み重ねが一応こちらにもあり、さらに、足元で進むイスラエルによるガザの虐殺(これでユダヤの民は、20世紀半ばに貯金した民族的な憐憫と同情と尊敬を全て失った)と、それを前に白々しく展開される米英両国の二枚舌などを目の当たりにしたため、マンがこの長編小説を通じて描こうとした人と神の間に存在する「人間性」の不確かさと危機とが、相応に刺さるようになった(と受け止めている)。とりわけ西欧の文明文化を代表し、合理主義と進歩主義を信奉するイタリア人のロドヴィコ・セテムブリーニ氏と、イエズス会士で全体主義を支持するユダヤ人のレオ・ナフタ氏が作中、何度も繰り広げる大論争の模様は、21世紀の「X」(旧Twitter)におけるそれを想起させるような騒がしさであり、結局のところ人類は、20世紀の初頭の思想的混乱を、ちょうど中東の地や東ヨーロッパの大平原での惨劇が証明したように、一世紀が経っても、ちっとも克服できていないという残念な現実へと思い至らせる。

 

 否、正しくは、変わっていないと言うよりは、むしろ悪化していると言った方が良いかもしれない。「X」を、「憎悪や偽情報を広めることで民主主義を破壊する『巨大な世界規模の下水道』」と例えたのはパリのアンヌ・イダルゴ市長であったが、その例えを流用すれば、下衆と三下が大きな顔をしている日本の「X」は、流れすらない淀んだ腐敗槽(セプティック・タンク)に当たろう。それらに比べれば、セテムブリーニ氏とナフタ氏の議論は仮に大炎上したとしても、スイス・アルプスの天然上水レベルの上品さにとどまろうと言うものだ。いずれにせよハンスは、気がつくと、戦場にいた。それは、近未来の自分たちの姿かも知れない。「私たちはどこにいるのだろう? あればなんだろう? 私たちは夢にどこへつられてこられたのだろう?」。ハンスを描きながらもこう戸惑う「魔の山」の語り手の姿は、「ノルウェイの森」の最終節、上野駅構内と想像する電話ボックスの中から緑に電話を掛けておきながら、自分の居場所を正しく認識できず、「僕は今どこにいるのだ?」「いったいここはどこなんだ?」と狼狽する「僕」の描写と、これまた奇妙に重なる。これだから小説というものは面白い。まずは眼球ときめ細かく相談しながら、今年は、マンの主要作品を読み直してみることにしよう。

 

「国家崩壊を神話的に描く、二十一世紀の『魔の山』」と称される ルッツ・ザイラー 著の「クルーゾー」も忘れないうちに買ってみた。

 

 

セキセイインコのようなもの

痛恨のミス、なり

 以前勤めていた会社で、ある時、こんなやり取りがあった。相手は直接の部下ではなかったが、名前と顔はすぐに一致するくらいの間柄だった。彼が同僚と雑談に興じていた最中にたまたま、近くを通りかかった小生に、声を掛けてきた。

「小鳥遊さん。堀北真希って、いいと思いませんか?」

 その口調には、当然のことながら、ある程度の同意とともに、オリジナルな見解も期待するニュアンスが含まれており、さぁ、どう答えようかと頭をフル回転させた。

 普段は、芸能界の動向などには、後述する一対象を除いてまったく興味・関心がないのだが、これまたたまたま、その数日前に彼女を主人公とする『野ブタ。をプロデュース』というテレビドラマが予想外にヒットし、事実上のデビュー作である堀北真希にも赤丸急上昇ばりに注目が集まっているという旨のエンタメニュースを、PCのポータルサイトで目にしたばかりだった。

 今から振り返れば、不意を突かれた問いかけであったにも関わらず、なかなか上出来な返答ができたものだと自分でも感心するのだが、その時、咄嗟に口に出た言葉が、

「堀北…真希…さんですか。あぁ、あの『野ブタ。をなんとか』とか言うドラマに出ている、ちょっと変わった雰囲気の女の子ですよね。ということは□□先生(筆者注、部下の名前)は、ああいうなんて言うか、透明感のあるセキセイインコみたいな子が好みなのですか。いゃー、なかなかマニアックですな…。なるほどなるほど…」

 この比喩がこの場では、うまい具合に、□□くんを除く皆の期待に副えたらしいことは、一同が、職場内で見せるには不釣り合いなほど笑い崩れたという事実が雄弁に語っていた(してやったり!)。ただし問題は、自分が推していた子が、あろうことか、衆目の下で、上役にセキセイインコと例えられた□□くんのフォローの方である。さて、どうしようと引き続き頭を回転させていると、幸いなことに、□□くんの方から怒気は含まぬ声で、「では小鳥遊さんは、どんな女優さんが好みなんですか?」と問い掛けてきてくれた(おぉ、良かった。怒っていない)

「ウチが好みの女優さん?。よくぞ聞いてくれました。ウチは昔から、桜井幸子、一択です。知ってますよね、ドラマ『高校教師』…」

(…)

 しかし残念哉。こちらは、わざと微妙な変化球を□□くんに投げ返したつもりであったのに、その球は、あたかもニュートリノのように彼の身体に何の反応も与えることなく通り過ぎ、オフィスの壁に当たって床に転がり、そして静止した。一瞬、時の流れが遅くなったように感じた。そう、簡単に述べれば、彼は桜井幸子を知らなかったのである。少なくとも、すぐには脳裏には浮かばなかった様子であった。こうなると、正直、微妙なキャラクターだけにイチからの説明(ちと、面倒だなぁ)は厄介なことになる。

「あれ?桜井幸子をご存じない。これは失礼しました。ちょっと変わった女優さんでしてね。何ていうか、女優なのに、女優の仕事が苦手なように見えるところがいいんですよ。どこか、心ここにあらず、といった表情をふと見せるところもあって…。何より、陰りのある笑顔をさせたら、あの世代ではピカ一ではないかと…。今度ぜひ、機会があったら『高校教師』を観てくださいな」

 実はこの瞬間になって、小生は、大きな過ちを犯してしまったことに気が付いた。勇み足とも言い換えてもいいだろう。芸能などと言う世界には、一切関心を持たない孤高の存在というイメージを社内でずっと醸し出してきたはずなのに、他愛もない雑談に絡めとられた挙句、図らずも、桜井幸子推しというか、“蔭りを帯びた女の子好き”という心の奥底にしまっておくべきはずの性癖をゲロってしまったのである。もしかすると「痛恨のミス」とは、この時の自分のために用意されていた言葉だったのかも知れない(いゃ、ホントにしまった!)

 ともあれ、これ以上の墓穴を掘って、余計な詮索を受けぬために、急に用事を思い出したふりをして、この場を、第二宇宙速度に迫らん速さで離脱したことは、改めて語るまでもないことだと思われる。

                  *

 その桜井幸子が電撃的に芸能界を去って、今年の冬で13年が経つ。戸籍的にはこの12月で50歳になったはずだ。ネット上に散見される好事家の情報によると、引退後、国際結婚をして米国カリフォルニア州に居住しているというのが有力な説のようだ。汚泥のような芸能界で心身をすり減らし、最後は忘れ捨てられるのとは、比較できぬほどまともな身のこなし方であることは間違いない。しかし、正直なところ、factはどうでもいい。原節子ではないが、引退後が謎で、不明であればあるほど、こちらの想像の自由度が増すからだ。以下は、熟成に熟成を重ねた小鳥遊の妄想である。

                  *

 アメリカでの生活も実は早々に切り上げて、独り、ひっそりと帰国した彼女。最終的に落ち着いた先は、急行が止まらない在京の大手私鉄沿線の駅前に建つ7階建ての雑居ビル。その2階に、看板も出さずひっそりと店を構える時代遅れの洋酒バー(会員制)のカウンターに、日替わりで立つ“ちいママ”に、終の天職を得た。別の曜日に店に出る、やはり陰りを帯びた笑顔しかできない和久井映見小西真奈美とともに、疲れた擦り切れた男の客たちに、夜な夜な静かに酒を注ぐ…。キスチョコの代わりには「リスパダール(一般名:リスペリドン)。BGMは中島みゆきの初期作品群をエンドレスで流すのみ。店のオーナーであるちあきなおみが顔を出すことももめっきりと減るなか、黒服を纏った小生は、お店で唯一の男手として、終始寡黙にグラスを磨き続ける──そんな立場に収まりたい(呆)

 

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とんがりコーンのようなもの

観光公害の地はわが魂に及び

(備忘録として)

 先日、「コロナ禍」を挟んで4年ぶりの海外旅行に出かけた。歴史的な円安もさることながら、露西亜の普京が隣国に対して始めた侵略戦争によって原油価格が高騰。これにつられて航空燃料であるケロシンの価格も上昇したことから、航空各社が強気の燃油サーチャージを設定していることも、海外旅行を手軽なレジャーのカテゴリーから遠ざけている。今回はたまたま、燃油サーチャージを取らないスカンジナビア航空が、休暇を予定していた3週間前に羽田~コペンハーゲン間の特典航空券を解放したのに出くわし、大急ぎで航空券を押さえたということが、慌ただしい旅立ちへの動機となった。形而下の話を続けることを許してもらえれば、同じくサーチャージフリーを続けるシンガポール航空のパリ~シンガポール間の特典航空券も押さえられたので、結果として、かなり安価に欧州を往復することができた。

 

 文字通りの本末転倒であるが、それでは、コペンハーゲンin、パリoutという条件のもと、どこへ行こうかというのが課題になった。まず、武漢肺炎を引き起こした中国人と日本人の見極めに慣れていない欧州の田舎町は、排斥リスクが高いと判断して、最初から除外した。アジア人も多数訪れる国際観光都市の中で、まだ訪れたことがない街をというフィルターをかけて最後まで残ったのがプラハバルセロナであったが、最終的には、より温暖な気候だという点が背中を押す形となって、後者に落ち着いた。

 

 周知の通りバルセロナは、市の人口の20倍に及ぶ年間3200万人のツーリストが世界中から訪れるスペインきっての人気観光地である。隣国のソウルからは直行便も飛んでおり、韓国人にも人気だという点も、歪んだ黄禍論信者からある程度フリーになれるのではと想定した(蛇足ながら、メッシという有名なサッカー選手が、つい数年前までバルセロナのプロサッカークラブにおり、彼を目当てに多くのサッカーファンがバルセロナを訪れたという話は、ホテルのフロントマンより、こちらの無知を半ば呆れかえられながら、伺った)。

 

 さて、そのバルセロナである。アントニ・ガウディのユニークな建築群以外にも、パブロ・ピカソジョアン・ミロサルバドール・ダリパブロ・カザルスといった“濃い”芸術家らを多数輩出した地だけあって、一癖も二癖もあるスポットが市内に点在している。その上に、コロナ禍前のバルセロナは、ミラノと並んで観光客をターゲットにしたスリ等軽犯罪のメッカとしてその名を轟かせていたこともあり、ガイドブックやテレビの旅番組を見ているだけでは決して体験できない、いい意味でも悪い意味でもストレスを常に感じ、結果として体力をいたく消耗した。加えて日差しもきつかった。当初は「時間の許す限り、何でも見てやろう」と気負っていたのも振り返ればお笑い草で、到着後、半日もしないうちに挫折した。その後はこの魅惑的な街を離れるまでの数日間、這う這うの体で観光スポットより宿に戻っては、ベッドに身体を放り投げ、体力の回復を待ってから、再び次のスポットへと外出するという行為を繰り返した。要は、4年間のブランクと、この間にカレンダーが無慈悲に刻んだフィジカルの経年劣化が隠せなかったのである。

 

もちろん、だからといって得るものがなかったわけではない。特に、バルセロナのシンボルとなっている「サグラダ・ファミリア」は、約1万円もの入場料(という名のお布施)を払ってでも、そして、途切れることなく訪れる観光客の喧騒に閉口しようとも、自らの肉眼で見て「良かった」と思える体験であった。皆が評価する有機物を想起させる独特の造形センスもさることながら、個人的には、光と陰の間に無数に存在している陰影の使い方と優しさに脱帽した(←偉そうに!)。

 

光が躍っていた

かつては街はずれであったらしい

 と同時にこの時、何の予告も前触れもなく、田村隆一の古い詩が脳裏に浮かび上がってきた。それは「言葉のない世界」より、

 

言葉のない世界

 

言葉のない世界は真昼の球体だ
おれは垂直的人間

言葉のない世界は正午の詩の世界だ
おれは水平的人間にとどまることはできない

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって
真昼の球体を 正午の詩を
おれは垂直的人間
おれは水平的人聞にとどまるわけにはいかない

 

 しかしなぜ唐突に? その疑問は帰国後、YouTubeの海をMetaの“おすすめ”に任せて漂っているうちに、答えらしきものを見出して氷解した。それは今から40年程前に放映された「サントリーローヤル」のTVCMだった。日本がバブル経済の高みに向って無邪気に上昇を続けていた1983年、アルチュール・ランボーをテーマとしたシュールな映像がお茶の間に流されたのを記憶している昭和生まれも多いに違いない。翌84年には第2弾として、アントニ・ガウディバージョンが放映された。このふたつの記憶が脳内の同一ファイルに間違って書き込みされていたたために、サグラダ・ファミリア=前衛詩人という、間違ったアウトプットを引き起こしたようなのである。いずれにせよ、情けない話である。

www.youtube.com

 

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 それにしても、実に奇怪なCMだ。少なくとも前者は、反逆から信仰までのすべてを煮詰めて内包させた天才詩人の世界観とは似ても似つかない映像並びに演出だと思えるのだが、当時の電通には忖度しない尖ったクリエイターがおり、クライアントである大手洋酒メーカーの方も、今と違って懐が深かったのであろう。それに比べれば、84年のCMの方はまだ、不思議ながらも一般の視聴者にも刺さろうというものだ。

 

 恐らくはVHSで記録されているのであろう粒子の荒い、暗めの映像を繰り返し眺めていると、オーバーツーリズムなどという言葉がその欠片もなかった前世紀の良き時代が、当時の空気そのままに“フローズン”されており、恥ずかしながら、干からび切った心が少し震えたことを素直に告白したい。昭和は、しみじみと遠くなりにけり(同じく帰国後、友人から、「あのちゃん」がとある番組で、サグラダ・ファミリアのことを「とんがりコーン」のようなもの、と例えていたよと教えられた。爾来、サグラダ・ファミリアとんがりコーンと、記憶がさらに間違って上書きされそうな恐れを覚えていることも、併せて白状したい)。

 

確かに、とんがりコーンである

やおい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪Makoxite≫のようなもの

黒い瞳の国

 中島みゆきの「中期」の傑作と言われる『糸』。1998年に放映されたTBS系の金曜ドラマ『聖者の行進』の主題歌として使われたほか、21世紀に入って多くのアーティストがカバーするようになり、昨年には同曲に着想を得た映画までが作られた。個人的には、傑作と佳作の中間やや上あたりに位置するレベルの楽曲ではないかと思っているのだが、大多数の方は、分かりやすい歌詞ということもあって、高評価を下しているのだろう。

 重ねて個人的には、その『糸』が収められた彼女20枚目のアルバムタイトルにも採択されたシングル『EAST ASIA』の方が、遙かに優れているように感じる。

 

♪降りしきる雨は霞み、地平は空まで

旅人一人歩いてゆく、星をたずねて

 

と、温帯湿潤気候の情景が浮かんでくるような歌詞とアジアンメロディーに乗せて、

 

♪どこにでも住む鳩のように、地を這いながら

誰とでもきっと合わせて、生きてゆくことができる

 

と、自らを説明する。その上で、

 

♪でも心は誰のもの、心はあの人のもの

大きな力にいつも従わされても

私の心は笑っている、こんな力だけで、心まで縛れはしない

 

と、しなやかな「強さ」も内在しているのよと主張すると同時に、主人公に「圧」を与えている大きな存在をも暗示する。もちろん、暗喩がとても上手なみゆき嬢なので、悪しき存在を名指しするような野暮なことはしない。ただシンプルに、

 

♪国の名はEAST ASIA、黒い瞳の国

難しくは知らない、ただEAST ASIA

 

と、極東アジアの狭いエリアで互いに肩を寄せ合わせているのが現実であるにもかかわらず、すぐに国体だの、民族だの、国益だのと熱くなるある種の人々の有り様を、聴きようによっては強烈な皮肉でもって、いなしている。

 

♪私のくにをどこかに乗せて

地球はすくすく笑いながら 回っていく

 

 この曲が発表されたのは、今からおよそ30年前の1992年のことだった。バブル経済は峠を越えていたものの、中国は依然、開発援助対象国であり、日本はこの世の春の「最後の夜」を迎えていた。一方で世界では、ローマ教皇庁ガリレオの地動説裁判に誤りがあったことを彼の死後350年目にして初めて認め、環境と開発をテーマとする国連主催の「地球サミット」の第1回目会合が開かれた。言い換えると、強靱さや勇敢さ、好戦性といった当時主流のマツズモ的社会に、最初の変節点が訪れた年だった。

今、改めてこの曲を聴くと、世界は確実に大きく変わり、コロナ禍でさらに加速したのに、日本はひたすら立ち止まり、既に周回遅れとなっている。であるにもかかわらず、なおトップ集団を走っている気になっている、否、そう思い込もうとしていることに否応なく気付かされる。

 

この秋、一連の形而下な報道とそれに付随する下卑た匿名の声の存在が、世界的な「日本異質論」を呼び起こすことになった元皇族の小室眞子さんを巡る結婚が、その最たるものだろう。徹頭徹尾、すでに「大人」である二人の意志と責任に任せておくべき話であるのに、やれ伝統が、やれ権威が、やれ税金がと目を吊り上げて、喧しいこと、喧しいこと。司馬遼太郎は「日本人の心は一寸(いっすん)掘ると、攘夷が現れる」と述べたが、令和の世に変わっても、まさかそれを目の当たりにするとは正直、想像だにしなかった…。

そこで、改めて『EAST ASIA』の二番の歌詞を見て行こう。

 

♪モンスーンに抱かれて、柳は揺れる

その枝を編んだゆりかごで、悲しみ揺らそう

 

♪どこにでもゆく柳絮に、姿を変えて

どんな大地でもきっと、生きてゆくことができる

 

♪でも心は帰りゆく、心はあの人のもと

山より高い壁が築きあげられても

 

♪柔らかな風は、笑って越えてゆく

力だけで、心まで縛れはしない

 

 羽田からニューヨークへ向かう全日空機に、実質身一つで乗り込もうとする、まさに彼女の心境そのものを描写しているかのように感じるのは、筆者だけであろうか。

 

♪国の名はEAST ASIA、黒い瞳の国

難しくは知らない、ただEAST ASIA

 

ともあれ、幸あれ!

 

 

 

大艦巨砲主義のようなもの

Accidents Will Happen(じこはおこるさ)

 「トーマス」と“Google先生”に打ち込むと、筆頭に掲示される検索結果が「トーマス 機関車」で、次いで「トーマスバッハ」が示されてしまうあたりに、知的劣化が如実に現れていると自認する。もっとも、「コロナに打ち勝った証し」などと豪語して、開催を強行した五輪が終わった途端、「やっぱり負けていました」とばかりに政権を1年余りで放り出した無能且つ陰湿な御仁の三文芝居のお粗末さに比べれば、まだ可愛い方だとの判断を下してくれる向きもあるやに違いない。

 跡を継いだ豆もやしのような政権も、脛に傷を持つ二軍選手しか残っていないのであろう。表紙だけは代わったものの、中のコンテンツに、見るに値すべきものが殆どないのには改めて驚かされる。どう好意的に解釈しても、行き詰った社会にイノベーションを、少なくともコロナ禍に対する有効なソリューションを提供できる面々とは映らない。ウイルスという目に見えない「敵」と2年近くも対峙しておきながら、未だに旧態依然とした対策に固執しているからだ。

 そこで想起されるのは、やはり、今や「失敗する組織」の代名詞と化した感のある日本海軍を置いて、他にはないだろう。肉眼では捉えにくい暗闇や薄暮悪天候時に来襲する敵機を捉えるに当たり、自国が生み出した八木アンテナという優れた電子デバイスがありながら、その価値を正しく評価できなかったばかりか、「敵を前にして電波を出すなど『暗闇にちょうちんを灯して、自分の位置を知らせるも同然』だと考え」て、全面否定。その愚かな判断は、後に、レーダーと無線を駆使した米国の電子戦で日本海軍の艦艇と航空機が蛸殴りにされたマリアナ沖海戦などを通じ、自らの血で贖うことになったことは羞恥、もとい周知の通りである。

 目に見えないウイルス=敵を前にしながら、八木アンテナ=レーダーに相当するPCR検査の全面的な実施を、「偽陽性」の発生確率を根拠として抑制に走り、クラスターをしっかりと把握していけば制御は可能という、いわば肉眼での敵機確認を徹すれば事は足りるという判断を下した結果、これまでに計5波に及ぶ新型コロナウイルス感染症の流行拡大を招き、結果としてこれまでに、東日本大震災を上回る1万8000名弱に及ぶ死者を出すという日本の現代史に深く刻まれる大失態を演じた。

 先の戦争とのアナロジーをさらに続けさせてもらえれば、接触感染や飛沫感染新型コロナウイルス感染症の主要な感染経路と見做し続け、その後、どんなにそれとは反する知見が集まろうともエアロゾル感染を中心とする空気感染を認めなかった政府の硬直した姿勢は、ミッドウェー海戦で第一航空艦隊を失い、航空戦力の価値の方が勝るというファクトを突き付けられてもなお大艦巨砲主義からの思想転換を果たせなかった病的なプライドを宿す穀潰しエリート集団の姿と、見事に重なる。要は、80年前から何も進歩していないという「現実」を、図らずも、この見えないウイルスは白日の下に晒してくれたという訳だ。

 恐らく、極東の島国の混乱は、コロナ禍が収まってもしばらく続くであろう。振り返れば14世紀のヨーロッパ。居住人口の3分の1を死に至らしめた黒死病(ペスト)を前に、教会は「無力」を曝け出し、行き詰まった封建領主たちの権威は失墜した。不条理を突き付けられた人々は、それを克服しようと「科学」と「自然」に目を向け始め、その動きは100年後、イタリアはフィレンツェ発のルネサンスとして花開いた。そして、この瞬間こそが、本当の意味での「ペストに打ち勝った証し」に他ならなかった。してみると、目に見えないコロナウイルスに組み手すらできていない段階であるにも関わらず、「打ち勝った」などと宣うことが、いかに不遜で無知で歴史を知らないな封建領主的発言であったかということが分かるに違いない(聴こえてるか?無能且つ陰湿な御仁よ)。当人の表舞台からの退場は、実は政局でも何でもない。世の摂理と呼べるものであったと、『きかんしゃトーマス』を観ながら改めて想う秋の日の一日である。

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八木アンテナを構えるドイツ第三帝国の傑作夜間戦闘機 He219

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黒死病に打ち勝つのに1世紀かかった

 

 

ファイアファイターのようなもの

失楽園

 「オーマイガー!オーマイガー!オーマイガー!」と、徐々にオクターブが下がっていくアメリカ人エスタブリッシュメントのリアルな叫びを聞いたのは、この時が初めてだった。2001年9月11日水曜日。雲一つない秋空にそびえるニューヨークの「ワールドトレードセンタービル」に、あたかもケーキにナイフが刺さっていくように、人が乗っているはずの飛行機がすっと消えていく…。この、妙にリアリティー感を欠いた映像は、同時代を生きた地球市民にとっては、死ぬまで網膜に残り続けるシーンであるに違いない。

 あの日、日本は、というか関東地方は、未明から台風禍に見舞われた。朝のまさに通勤時間帯に鎌倉市付近に上陸した台風15号は、午前中、神奈川や東京に大雨をもたらした後、茨城県北部を通って福島県沖の太平洋に抜けた。この年の1月に発足したばかりの国土交通省記者クラブで、本物の経済記者になれない“トロッコ”であった小生は、台風15号が遺した交通機関や物流網への被害を翌日の朝刊向けに、『台風一過、首都圏に爪痕。物流網にも大きな乱れ』といった原稿へとしたため、その後、19時のNHKニュースで国土交通省に絡む「想定外」の話題や事件が放映されなかったことを確認して、21時頃帰宅した。

 遅い夕食後、気分転換に、買って間もないタミヤ製のプラモデル「1/48 グラマン F4F-4 ワイルドキャット」を組み立てようと、説明書をしげしげと読み込んでいた時だった。家内が「ねぇ、ちょっと」と声をかけてきた。≪えっ、プラモに集中しようとしていたところなのに…≫とすぐの返事を思案していると、前より強い口調で「ねぇ、ちょっと!」と言ってくる。そこに、いつもとは違う変調を感じたことから、彼女が見つめるテレビの画面(そういえばまだブラウン管であった!)に顔を向けてみると、「ワールドトレードセンタービル」の一棟から煙が噴き出し、まさに2機目がもう一棟の方に突っ込んでいく瞬間だった。そして1秒ほどの遅れをもって、冒頭に記した「オーマイガー!」の絶叫が耳に飛び込んできた。

 それからが、大変だった。只ならぬことが進行していることは理解できたものの、明日の新聞紙面を急ぎ、書き変えなければならないという仕事の必要性に思い至るまでには、正直なところ時間がかかった。程なく会社のデスクより掛かってきた電話でようやくそれに気付き、次いで、国土交通省の大臣官房広報課からの電話によって「そうだ、原稿の全面差し替えだ」となった。まさにトロッコたる証明である。とりあえず、「今、分かっていることを航空局がブリーフィングする」という記者クラブに押っ取り刀で向かうと、会見場は既にテレビカメラの砲列が敷かれており、普段は、冗談を飛ばし合う同業他社の記者連中も完全な臨戦モードに入っていた。

 当時は、いわゆる「インターネットバブル」の余韻がまだ残っていた頃で、日本と米国(特に西海岸)を結ぶ航空路は軒並み活況を呈していた。米政府の命令で、日本から米国に向かっていた全ての旅客機は可及的速やかに最寄りの空港に緊急着陸(ダイバード)することが求められた、というところまでは航空局の方から説明されたが、では何便が、何という空港にダイバードしたのか、日本人はどうなっているのかという詳細に至ると、運航の主体である航空会社の広報でも把握できないということだった。新聞の朝刊の締切り時間は最大限に伸ばしても午前1時半頃。そのタイムリミットが近づくにつれ、「分からない」を繰り返す当局に対し、一般紙社会部記者連中の口調が荒くなっていくのは、業界的には致し方のないことだったと、今更ながら思う(空気を読めよ、などと記者会見の席をなぁなぁで済ませ続けると、その黒い終着点は首相官邸記者クラブが見せる目下の惨状となる)。

 ともあれこちらは、「分かっていること」だけで原稿をでっちあげ、以降は、事態の推移をテレビの衛星放送などから拾うことに専念させてもらったが、繰り返し流される「ワールドトレードセンタービル」の崩壊映像が、あたかもプロの映像作家が作ったかのような「完璧さ」と「美しさ」すら帯びていたたため、その過程で、多くの人がその日を限りに、愛する家族や友人やペットらの元に永久に戻ることができなくなったというざらつく現実に思いが及ぶのは、翌木曜日朝、着替えのために自宅に戻り、玄関の扉を開ける時まで待たねばならなかった。そして、同時に沸き起こった「世界が剥き出しにする容赦なさから、これからは実は、誰しもが逃れられないのかな(ちょうど、非常階段で命を落とすことになった多くのファイアファイターたちのように)」という予感は、不幸にも、20年間の歳月の中で補強されこそすれ、否定されることはなかった。

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 99年の12月に仕事でNYを訪れた時に撮った銀塩フィルム写真を、今日、改めて眺めてみると、ありきたりの表現かも知れないが、「9.11」を境に米国だけでなく、世界は完全に「失楽園し、もう戻れないのだな」との思いを、改めて強くする。

 

追記:この夜、放り出すことになったタミヤ製のプラモデル「1/48 グラマン F4F-4 ワイルドキャット」は、20年経った今も完成していない。