小鳥遊 遊鳥の裏通り

La Vérité sortant du puits.

ピクルスのようなもの(キュウリではない)

それはどこから湧いて、どこへ向かうのか…

 フェティシズムという言葉を知ったのは、果たして何時のことであっただろうか。ませた友人(故人)が、「お前、澁澤を知らないのかよ」と投げつけてきた蔑みの言葉を受けて、近くの図書館で一番痛んでいる、すなわち一番読まれていると推測できる澁澤龍彦のエッセイを1冊、借りたタイミングであったことだけは覚えている。

 

 今でこそ、『マツコの知らない世界』などのヒットによって、本来のフェティシズムという言葉が指し示す呪物崇拝や、その後主流となった性的偏愛傾向という意味を超え、偏執狂的な傾向全般を指す用語として使われるまでに一般化しているが、インターネットすらない当時は、アングラ、キワモノの中においても“ヤバイ”方に属する印象が強かった。専門の書籍や雑誌を介して、少しだけ覗けた“行っちゃった世界”と“行っちゃった人たち”で構成される秘密のインナーサークルであった。前述の『マツコの~』において、臆面もなく、時には競い合って、自己のマニア度を誇る人たちを観るにつけ、言い古された言葉ではあるが、ずいぶんと世の中は変わったなぁとの思いが去来する。

 

 前田愛という国文学者兼文芸評論家がいた。惜しくもがんを患い、平成の世を見ることなく56歳の若さでこの世を去った。彼がその晩年、都市を論じた中で、「目の街/腸の街」という表現を用いた。時は土地価格の異常な高騰を原動力としたバブル経済の真っただ中。東京の戦前・戦後を眺めてきた地域の一角がたちまちのうちに再開発され、似たようなオフィスビルと集合住宅に代わっていくという狂乱の時代の最中に発表された。明るく、清潔で、効率的な「目の街」(例えばと、前田は西新宿の超高層ビル街を挙げた)は皆が当初は歓迎するものの、人間の精神というものは、そうした光の中だけにとどまり続けることは難しい。少なくとも苦痛が伴うはずだと指摘した。翻って「腸の街」は、身体を切り裂かない限り外からは見えず、太陽の光も一生差し込まない。もちろん美しくもない。それでいながら、原始の生命から受け継いだ力で脈動を続けていると論じ、今度は新宿・歌舞伎町のゴールデン街を例示した。その上で、人間の精神というものは、開発が止まない新宿に「腸の街」が計らずも残っているように、アングラやキワモノの領域を求め、そこに逃げ込みたがる性質を本質的に宿している──などと主張してみせた。前田は、皮肉にも腸の疾患が命取りとなってしまったのだが、当時の愚かな青年にも、彼の些か荒っぽい比喩は、痛みもなく刺さった。

 

 さて、本題に移ろう。澁澤の著作によってフェティシズムの存在を「肯定」されると、自身の中に潜む偏執狂な要素について、意識的に探ってみた。すると、乳幼児の時に、(親の証言によると)こよなく愛したらしいガーゼの手触り、おでんのローカル具材・ちくわぶへの固執、剃刀で唇の周囲やあごの下を剃られるこそばゆい感触、高速回転するものへの強い興味関心(「絶対に触るなよ」というものに手を伸ばしたがる)などが想起された。ただ、それらを抑えてマイ・フェティシズムのトップに立ったのが、ボブ(Bob Cut)への憧憬だった。

 

 ヘアスタイルのみならず、ファッション全般に対する興味・関心・見識は、この世に生まれ落ちた時以来、ほぼゼロに等しいことが逆に自慢できるくらいの身なのであるが、どういうわけか、自分でも謎なのであるが、このBob Cut並びにその亜流であるPageboyに対する憧憬がやまないのである。コケシに代表的に見られるお河童頭は、なぜか食指をそそられない(Bobをピクルスとすれば、お河童はキュウリの漬物くらいの違いがある)。自分の中ではあくまでBob かPageboyでなければならないのだ。その上で、このBobの中に、うなじの方向から両手の各指を少し広げながら静かに差し入れて、髪の毛の内部に残る冷たい領域の感触を、指の間で存分に味わいたいというのが、他人には決しておおびらには語れない、理性の金庫の扉の奥に隠された羨望なのである。

 

 ちなみに前髪と後ろ髪の長さが等しい、中世ヨーロッパの僧侶などに典型に見られるbowl cutでは、髪の内部に掌を差し入れるストロークが不足するため、その魅力はBobには及ばない。方や、日本の平安時代の貴族女性の間で流行したらしいいわゆるHime cut(姫カット)では、逆に、長い後ろ髪が両手を差し入れる際に邪魔になる。要は、指先から手首あたりまでが過不足なくすっぽりと髪の中に納まることが、マイ・フェチ上で肝要となるのだ。果たして、ご理解いただくことは難しくても、「そういう変なやつはいるかもな」レベルのご承諾は頂戴できるであろうか。

 

 それにしてもなぜ、Bob やPageboyに食指をそそられるだろう? まず考えられるのは、前世において、自らが当該のヘアスタイルをまとっていたか、あるいはごく親しい人がBob かPageboyであったという説だ。納得性という面では相応に高いものと思われるが、この仮説の最大の難点は、人は輪廻転生をする存在でなければならないという点にある。次に思い浮かぶのは、若かりし頃の母親がBobだったというアサンプションである。しかし実際は、これも当てはまらなそうだ。実家に残されている多くの紙焼き写真を見るにつけ、彼女の髪型は一貫してサザエさんのそれであるからだ。三つめは、生後、もはや覚えていない何らかの悦楽的体験に合わせてBobの印象が、たまたまエラー的に一緒に記憶に刷り込まれ、やがてフェチに変質したという考えである。ただこれを敷衍しようにも、指が欲するリアルな官能性と釣り合うような悦楽的な体験をしたという記憶が見つからないという障害にぶち当たる。究極の自分事とは言え、謎が深まるばかりなのである。

 

 さて、このように結論が出ない戯言に、読者の貴重な時間をこれ以上浪費させるのは忍びないので本稿も“店仕舞い”に向かおうと思う。周知の通り、流行りのヘアスタイルは、戦後目まぐるしく移ろいだ。頭は一つしかないのに、かくも多くのバリエーションが生まれたものだと感嘆したくなる。実際、Pinterestという謎のSNSにアクセスし、「ヘアスタイル」で検索するとネットは夥しい数の画像を提案してくれる。そして「Bob hair」で探すと、いささかバタ臭いものの、出てくるは、出てくるは……。ただし残念かな、指を「静かに差し入れて、髪の毛の内部に残る冷たい領域の感触を、指の間で存分に味わいたい」と思える画像が実に少ないのである。所詮、米国発のアルゴリズムの限界なのではないかと想像する。従って、これまでのところ、私史上最高のBob選手権において、以下を凌駕する「作品」には遭遇したことがない(ウィッグなのが残念!)。弱冠20歳の時の映像というから、驚きだ。それにしても昔の芸能界は、コンプラ的には目も当てられない前近代的に世界ではあったが、一人のタレント(才能)に、多くの資本と大勢のタレント(知見)をふんだんに注ぎ込んで作り上げていたことが、如実にわかる映像である(彼女の左手のグーだけが年齢相応で可愛らしい)。今日の、“何とか坂”グループなどに見られる粗製乱造のエンターテインメントと比較してしまうと、両者の落差に眩暈がしようというものだ。

 


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誘蛾灯のようなもの

元祖コドオジ部屋は蜜の香り

 気が付けば2025年になっていた。ついこの前、コンピューターの2001年問題を無事にクリアできたと胸をなでおろしたばかりと思っていたのに、はや、四半世紀が過ぎていた。併せて、数字が示す無慈悲な情報により、2050年の時点では既にこの世に居ないだろうという可能性の高さも、ひしひしと感じるようになってきた。使い古され、手垢にまみれた常套句ではあるが、まさに「光陰矢の如し」と言うほかない。

 

 さて、「そこ」を訪れたいと思ったのは、今から40年ほども前のことになる。確か、昭和末期に神奈川の鎌倉文学館で中規模な展覧会が催され、友人らと見に行ったのが発端だった。そこそこのコレクションが日本へ運ばれてきてはいたが、文学書に例えれば“選書”といったレベルで、全集には至っていなかった。加えてその訪問時は、自分のペースで鑑賞(というほど理解していたわけではないが)できなかったという不満も加わり、いつしか、本居地に乗り込もうとの思いを固めた。(…)であるが、その後は長きにわたり、加えて幾度かは訪問の実現寸前にまでチャンスが巡ってきたことがあったにもかかわらず、航空機のフライトスケジュールや館の定休日といった不運が重なり、昨秋まで思いの実現を果たせなかった。

 

 その個人的な憧憬の地とは、パリに所在する「ギュスターヴ・モロー美術館」である。新型コロナ禍後にオーバーツーリズムが再び問題視され、実際、「ルーヴル美術館」などは連日、芋を洗う状態に陥り、とても絵画を見て回れる状態にない。だが、さすがに当該美術館は、観光公害からはどうにか距離を保てていた。パリのヘソとも言えるオペラ座から地下鉄で一駅。そこから幾つかの交差点を折れ、最後に緩やかな坂を上っていくとそれは、邸宅街の中にひっそりと現れる。というより、ギュスターヴ・モローが晩年を暮らした住宅が、そのままフランス政府買い上げの美術館へと衣替えされたというのが正しい。美術史的には、個人美術館のはしりだと言われている。

瀟洒な邸宅が並ぶ一角にある。パリ中心部とは思えないほど界隈は静かだ。

 パリの裕福な家に生まれ、知識人階級の中で育ったことを如実に語る重厚な扉を開けると、かつて、玄関であったと思われる場所に小さなレセプションが置かれている。チェックインを済ますと、そのままモロー宅を1階から4階まで自由に巡ることができる。各階には、おびただしい数の作品や未完成のデッサン、本人が使っていた画材や日用品類が、当時の調度品類に囲まれたまま保存・展示されている。本人とその家族、それに日々の食料品などがそこに追加されれば、来訪者は19世紀末にたやすくタイムスリップができるという“仕掛け”が施されている。「生前のままに留め置くように」としたモローの遺言が、1世紀以上の時を経て、まさに効果を発揮している格好だ。

調度品類は19世紀のままだという。

 圧倒的な展示物のなかでも白眉は、螺旋階段で結ばれた3・4階の大展示室に飾られた、彼の代表作とその制作過程を残した素描の数々である。モローが生涯にわたって関心を寄せた神話や聖書をテーマとした大作群が、圧倒的な存在感をもって「これでもか」と迫ってくる。正直、日本で流行の“推し”などという軽々しい気持ちで訪れると、本人だけでなく、世界中から訪れるモローフリークにボコボコにされる恐れが冗談抜きである。例えは一気に形而下に落ちるが、必要な所作をあらかじめ学ばずに、「ラーメン二郎」本店にフリで訪れるようなものと例えられるだろう。

生前にモローがつくらせた螺旋階段を上がると…

個人美術館のはしりと言われるが、完成度に圧倒される。

 実際、決して広くない館内は、モローの人と芸術の在り様を、残り香まで吸収し、できれば自分のものにしたいと願う美大生やファン層の思いがエーテルのように満ちている。私事を挟ませてもらえれば、諸外国の名所・旧跡を訪れて、「あぁ、ここにずっと居たいな」と思わせたのは、これまでのところ、バチカンの「サン・ピエトロ寺院」と、ここ「ギュスターヴ・モロー美術館」の2か所だけである。館が閉じ、スタッフが帰宅し、夜の静寂が降りる頃、モローが遺した作品の主人公たち(もちろん、代表作《L'Apparition》のサロメ嬢も含む)が昼間の沈黙を解き放ち、にぎやかなおしゃべりを始めるその場面に、ともに居合わせたいと願ったのである。もしかするとモロー自身がひょっこりと、居間から顔を出してくるかも知れない──。そんな夢想さえ抱かせる空間であった。

《L'Apparition》

 さて、これ以上、駄文を連ねてもいいことはないだろう。ギュスターヴ・モローと「ギュスターヴ・モロー美術館」の西洋美術における位置付けに関しては、以下のサイトがとてもよくまとめている。さすがはプロの手による揺ぎのない記述である。

https://www.mmm-ginza.org/museum/serialize/backnumber/0509/museum_0509.html

 ただし、敢えて蛇足として付け加えれば、彼は今、日本を含む先進諸国で社会問題化している「子ども部屋おじさん」のはしりでもあった、と考えられる。実際、良い意味でも悪い意味でも母親の管理・監督下に置かれ、愛憎入り混じる感情を終始、母親に抱いていた。社会的に見れば完全なパラサイト。彼を支えたのは、後に「象徴派」と呼ばれる絵画芸術のいちジャンルにおける実績と名声のみ(カウンターパートとしてフランスでは「印象派」の爆発的な流行があったが…)だった。晩年はがんを患い、より一層、神話や聖書の世界に没入していったそうだ。当然の帰結として、死後はしばらくの間、存在すら忘れられていたものの、戦後、再評価の末に見事に復活を果たし、巡り巡って極東の旧青年のココロに爪痕を残すという悪戯までしでかした。

 

 今回の滞在は、次のアポイントメントがあったため、泣く泣く1時間強で切り上げざるを得なかった。今度こそは時間を気にせずゆったりと、と考えているものの、果たして「次回」というものは訪れてくれるであろうか。

良心の糸のようなもの

あの長い夏の日の終わりに

 今年はパリで開かれた“世界運動会”のために薄らいだが、例年、8月上旬といえば6日のヒロシマで始まり、15日の終戦の日で終わる一連の悲劇報道が一斉に展開される。いずれも、昭和に関わった人たちが存命なうちは続けられるであろうが、「令和」の次の元号くらいになったときに、果たして、メディアが揃って報道する題材であるかどうかは、いささか怪しくなってこよう。時代が下れば、応仁の乱終結も、関ケ原の戦いの勝ち負けも、さらには戊辰戦争の決着もほとんどの人が関心を持たないように、たとえ原爆の被害であっても否応なく、歴史の一コマになっていくものと想像するからだ。

 

 ただ、そうしたなかで気になっているのは、1985年8月12日、東京・羽田から大阪・伊丹に向かっていた日本航空123便が突如、操縦不能になった末に群馬県上野村の山中に墜落した「日本航空123便墜落事故」の行く末である。乗員乗客524人のうち、520人が亡くなった(生まれる前の胎児を含めれば犠牲者の数はさらに増えると言われる)単独機が起こした航空事故としては未だに史上最悪のアクシデントとして広く知られる。来夏は、あれから40年を迎える。

 

 今、あれから、と記したのは言うまでもでもない。当該事故の報道を克明に記憶しているからだ。大学生のみに許された長い夏休みも早半ば、この日はバイトも旧盆期間とあって「休み」であったため、普段よりも一層弛緩した長い夏の日の終わりに、7時のNHKニュースのなかで事故の第一報が飛び込んできた。帰省ラッシュの最中だということは皆が、すぐに頭に思い浮かべた。俄かに慌ただしくなる羽田空港日航本社、運輸省、そして政府の動き。テレビ各局はそれらを断片的に伝えながらも、肝心の墜落地点の情報が定まらず、乗員乗客の安否もはっきりしない。いらだちばかりが募りながらも核心にたどり着けないストレスが、ブラウン管を通じてひしひしと伝わってきたことを覚えている。

 

 もちろん、インターネットなどはなく、移動体通信(携帯・スマホの先祖)も普及していない時代である。日付が変わって翌13日の午前1時くらいまではテレビやラジオの報道を追ったものの、事故の発生から6時間が経っても新しい情報が出て来ず、やむなく就寝した。そして浅い眠りの後、翌朝7時のNHKニュースを見るためテレビを点けると、既に昇った陽の日差しに照らされた、御巣鷹山の中腹に散らばるボーイング747型機の残骸が、ヘリからの実況中継の音声とともに飛び込んできた。「やっぱり墜落したんだ……」。奇妙な感慨とともに、最初に抱いた疑問は、「なぜ大阪へ向かっていた飛行機が、長野県との県境に近いところに落ちたのだろう」というものだった。次いで、「なんだ、テレビは落ちた場所分かっていたのか?」という言葉が、意図せずに出たことも記憶にある。いずれにせよこの年は、13日以降、終戦の関連行事も脇へのけ、2週間以上わたって報道は日航機事故一色となった。

 

 周知の通りこの事故は、米ボーイング社が、事故の以前に施した機体後部の圧力隔壁の修理ミスが引き金となって、12日夕の123便としての飛行中に圧力隔壁が突如壊れ、その衝撃により垂直尾翼や操縦系統が破壊されてダッチロール状態に陥り、30分ほど山梨県から東京都西部上空を迷走した後、機体が上下さかさまになって御巣鷹山に激突したとされている。その一方で、垂直尾翼や操縦系統が破壊されたのは圧力隔壁の破壊が主因ではなく、自衛隊が使用していた標的ドローンと思われる飛行物体が運悪く同機の垂直尾翼にぶつかったからだとする異論も、当初から根強く囁かれた。さらには政府・運輸省(現国土交通省)が見せる一貫した消極姿勢も相まって、すでに39年も経過したのに喧しい論争が続いている。1982年2月に羽田沖で起きた「日本航空350便墜落事故」や、1994年4月の名古屋空港での「中華航空140便墜落事故」がいずれも、科学による検証を経て、大多数が納得した上で終結しているのとは好対照を見せている。

 

 さて、振り返れば1991年のことなので、事故の記憶もまだ克明に残る頃である。たまたま、運輸省記者クラブ詰め勤務を命じられることになった。そこで、このチャンスを見過ごす手はないと、日常の記者業務とは別に、知人や友人のほか、親しくなった関係者から「日本航空123便墜落事故」にまつわるオーラルヒストリーを少しずつ集める試みを開始し、途中、幾度かの中断を挟みながらも、実は今日まで続けてきた。残念ながらこれまでのところ、tier 1とも言うべき事故の第一次証言者には当たれていないものの、tier 2、tier 3クラスの方々の記憶や考えや思いは、それなりに貯めることができたのでないかと自負している。その詳細についてはここで詳らかにするわけにはいかないし、そのつもりもないのだが、俯瞰して感じることは、やはりこの事故は、単なる修理ミスに起因するものではないなという推論である。公にはされていない「見えざる力」が事故直後から働いて、狡賢い頭脳を持つ人たちによる仮説が急ぎ編まれ、それを半ば強引に「航空事故調査委員会」による公式見解へと持っていったと考えざるを得ない傍証が数多くあるのだ。

 

 例えば、事故調の記者会見に実際に参加した先輩の記者(既に故人)曰く、「委員長は、会見で繰り返し、『この報告書はあくまで現時点でのできうる限りの取りまとめであり、これで終わりというものではない。引き続き、さらなる真相解明に向けて努めてもらいたい』と強調した。こんな自信なさげな事故調の会見は、後にも先にもなかった」と。あるいは、かつて勤めていた会社の同僚曰く、「12日は大学のワンダーフォーゲル部の合宿で上野村の山中にいた。すると夜、屈強な登山グループが突然やってきて、『なんでお前ら、こんなところにいるんだ。ただちに下山しろ』と怒鳴られ、顧問の先生とともに山を降りた。下りる時には『俺たちのことは口外するな』とも強く言われた。村に着いて初めて、事故のことを知った」と。さらには、御巣鷹山を挟んだ長野県側の川上村で、レタスを収穫する住み込みのバイトに行っていた友人曰く、「墜落した場所は川上村の方からも行けたのに、農家の消防団員が手伝いに出発しようとしたら、上から強く止められた」と。3人とも年齢も性別も異なり、互いに会ったこともない間柄なのに、記憶に長く残る違和感を抱いたという点では共通する。と同時に、さまざまな関係者に、大きな力が加えられていたことが想像に難くないという部分でも通底しよう。繰り返すが、航空機事故に絡んでのこんな「不思議さ」が常に残る証言は、軍用機が関わるか、あるいは独裁国家を別にすれば他に見聞きしたことがない。

 

 そうしたなか、センセーショナルに登場した”紙礫”が角田四郎著『疑惑JAL123便墜落事故~このままでは520柱は瞑れない』(早稲田出版)だった。1993年12月に発売されるや、さしたる宣伝もしなかったのにたちまち重版。年明けまでには、民間航空機関係者の、少なくとも運輸省に出入りするような幹部層は皆が読んだと想像する。それぞれが本屋で購入し、ブックカバーを掛けて人目に付かないように一気に目を通し、「他言無用」とばかりに読後の感想を皆が慎んだ。筆者も初版を購入し、読了の後、「本が手に入らない」と訴えてきた業界関係者に貸したところ、その人も別の人に貸してしまったらしく、本は二度と戻ってこなかった(やむなく、年末に同じ本を再度購入した)。

初版本は今頃、誰の手に…?

 本書の内容はネタバレとなるのでここで開示するのは慎むが、「日本航空123便墜落事故」にまとわりついていた数多くのなぞを「解釈」していく上での、強烈な補助線として同書は働いた。現在も新刊の刊行が続くいわゆる“123便本”の原型になったと述べても過言ではないだろう。さらに、ここでも不思議が続くのだが、大いに売れたに違いない『疑惑』はその後、絶版となった。ロングセラー本は本来ならばお札を刷るのに等しいほどの利益を出版社にもたらすものなのに、なぜ止めてしまったのだろうか。ここにも、見えざる力が出版社に働いたのではないかと想像したくなる。

 

 もっとも、当該事故を圧力隔壁原因説でまとめてピリオドを打ちたいという動きに対しては、要所ごとに、有効な「抵抗」が見られたことも、この事故に特有な事象と指摘できるだろう。123便のコックピット内の墜落前の30分間のやり取りを記録したボイスレコーダーのデータが、政府の手により廃棄されようとした時には、良心のある誰かがそれを阻止し、マスターが仮に無くなっても大丈夫なようにコピーをばらまいた。前述の『疑惑』も、絶版になった本としては異例とも言える展開で、Kindle本として復活した。これでAmazon電子書籍サービスを止めない限り、誰でもこの稀覯本にアクセスできるようになった。

 

 

 仮に、圧力隔壁の破壊が実際の事故原因であるのならば、どんな酔狂でも、リスクや手間を冒してまで、こんな面倒には手を染めないだろうということも、圧力隔壁原因説が疑わしいと考えざるを得ない間接的な証左となっている。真実はそこにはないと、静かに、しかし途切れることなく「抵抗」は続いているのである。政権に都合の悪い公文書は平気で改ざんしてしまう、とても西側先進国(もう先進国ではないが…)とは思えないニッポンに残る、良心の糸ではないとかと改めて感じる夏である。そこで最後には、やはり、半ば恒例(?)となった中島みゆきの『世情』に助けてもらって締めとしたい。

 

♪ 世の中はとても 臆病な猫だから

  他愛のない嘘を いつもついている

 

 ♪包帯のような嘘を 見破ることで

  学者は世間を 見たような気になる

 

 ♪シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく

  変わらない夢を 流れに求めて

 

 ♪時の流れを止めて 変わらない夢を

  見たがる者たちと 戦うため

 

 

                                     了

伸縮継目のようなもの

親指から小指に至るオラトリオ

 完全な経年劣化なのであるが、左手の小指が「ヘバーデン結節」になってしまった。否、正確に述べると、罹患しているのに遅まきながら気が付いた、となろう。まぁ、どちらにしても、第一関節の部分が指の左右方向にこぶ状に膨らむととともに、上方にも盛り上がり、結果として小指がまっすぐに伸びず、やや右向き「く」の字状に曲がるかたちで変形してしまっている。健全な右手の小指と付き合わせて比べるとヘタレ形状がより際立って見え、あたかも、新幹線のレールの継ぎ目のように組み合わせることができる。

左手小指はこのかたちで動かない。

 『家庭の医学』をはじめとする各種のメディカル情報を一通り読んだところによると、原因は不明ながら女性ホルモンの分泌量との関連性が強く示唆され、必然的に中高年の女性に発症が多いとある。と同時に、指の酷使が原因との記述も一部にあり、筆者の場合は恐らくは、後者の方に該当しよう。利き腕の方の右手でなく、左手小指の酷使という点で思い当たる節があるからだ。休みの日も含めてほぼ毎日使っているパソコンのキーボードの入力である。「JIS配列キーボード」のホームポジションに両手を置いた時、左手小指で押下しなければならない「半角/全角」「1ぬ」「2ふ」「Qた」「Wて」といったキーを操作するために、非力な小指に負荷をかけ過ぎた結果としての発症ではないかと睨んでいる。

 

 しかしながら、スマホの普及前、インターネットという技術革新の波を受け、「JISキーボード」をコンピューター・インターフェースの”一丁目一番地”のデバイスとして使ってきた人々の多くが、同じくヘバーデン結節に苦しんでいるとは寡聞にして存じあげない。ではなぜ、特異的に発生したのか。これまた類推できるのは、「ひらがな直接入力」に起因しているのでないかという仮説である。上記の「1ぬ」とか「2ふ」とか「Qた」とかいうキーは、「ローマ字入力」を常用し、かつ、テンキーが備わっているキーボードであればあまり使用しないキー群であろう。ところが「ひらがな直接入力」となると、「1ぬ」や「2ふ」や「Qた」は日本語の文章中にほぼほぼ出現してくるため、その都度、小指を使って操作しなければならなくなる。無理に遠いキー上に伸ばしては、”うっん”(←小指の気持ち)とばかりに押す行為を繰り返すことは、小指からすれば「酷使」されている以外のなにものでもないと思われる。片や、右手の小指が扱うのは「^へ」「\―」「[゜」といったあたりで、押下頻度は左手小指と比べて格段に低い。

 

 改めて振り返ると、パソコンを「JIS配列キーボード」を使って「ひらがな直接入力」により操作するようになったのは、初代「iMac」を斬新なデザインに惹かれて個人用に購入し、かつほぼ同時期に、勤め先でも「Windows95」搭載のノートパソコンが支給され、業務で使用するようになった1998年のことであった。それから数えて四半世紀以上に及ぶ歳月である。仮に最初期の段階で、「ひらがな直接入力」ではなく「ローマ字入力」に踏み切っていれば、「ヘバーデン結節」にならなくて済んだかも知れない……。

 

 それではどうして「ひらがな直接入力」にこだわったのか。聡明な読者であれば既に感付かれていよう。「ひらがな直接入力」の”前史”として、ワープロの「親指シフトキーボード」にすっぽりと染まってしまっていたからである。学生時代に経験した某新聞社子会社のアルバイトで、初めてさわったワープロ富士通製のマシーン「OASYS」だったのだ。事務机のような大きさの機械で、表示装置もブラウン管であったように記憶しているが、ひらがな入力時のストレスはほとんど感じなかった。一旦、キーの位置さえ覚えれば、手が素直に動いて文章を作成できた。「JIS配列キーボード」のように、キーの位置を目と指でさまよいながら探して、思考が妨げられるということもなかった。こうした感想は、「OASYS」と「親指シフトキーボード」を語る人たちが皆同じように漏らす感想ゆえ、耳に胼胝ができている人も多いだろうが、経験者として感じた事実であるがゆえに、ここはお許しいただきたい。

 

 いずれにせよ爾来、ワープロ専用機がパソコンのワープロソフトに置き換わるまで、「親指シフトキーボード」で文字を入力することが、個人的なデファクトスタンダードとなってしまい、当然の帰結として、そう簡単には、このコンピューター・インターフェースの楽園から抜け出せなくなった。そして最終的に失楽園を強いられることになった時、せめてもの慰みとして、「ひらがな直接入力」という隘路を選んだというのが、令和の世を生きる多くの方々にとっては、ライフハックのヒントにすらならないという経緯なのである。

 

 周知の通り「親指シフトキーボード」は、ワープロ専用機が滅んだ後も富士通のパソコンのオプションメニューとして細々と命脈をつないできたものの、コロナ禍が2年目に突入した2021年1月、ひっそりと販売を終了してしまった。テクニカルサポートも26年初夏には打ち切られることが公表されている。残るは中古を含めた市中在庫のみとなったため、この発表がなされた直後には”親指シフト難民”たちが専門店に押しかけたりもした。オークションでは高値で取り引きされることが今も続いている。「覆水盆に返らず」とはよく言ったものだが、コロナ前に、多少無理をしてでも「親指シフトキーボード」が付いた最新マシーンを買っておけばよかったと、への字型に変形した小指を見ていてつくづく思う。

 

 なお、「捨てる神あれば拾う神あり」とでも例えるべきか、あるいは”親指シフト難民”たちの悲嘆の声が天に届いたのか、事務機器大手・キングジムが発売したデジタルメモ端末「ポメラ」に、これまたオプションとして「親指シフト入力」が用意されていることを昨年知った。発売当初は6万円近い価格であったが、徐々に下がってきた結果、足元では比較的容易に手が届く範囲となった。キーボード自体はJIS配列であるものの、親指シフト用のステッカーを既成のキーの上に貼って使用するのだという。「ポメラ」の開発者自身が”親指シフト難民”だったとのうわさも聞いた。しからば、相応のクオリティーを持ったインターフェースなのだろうと期待が高まる。食指が動く。目下の形而下の業務がひと段落したら、家電量販店などで「ポメラ」のデモ機をいじくってみたいと思う。”親指シフト難民”たちにも出会えるかも知れない。とはいえ、曲がった小指は戻ってこない(←しつこい!)。

 

 

 

光陰矢の如し、のようなもの

ポケベルとエビチリとええじゃないかに寄せて…

 先日、ある企画に絡んでモバイル通信端末の技術革新の流れを調べていたら、ちょうど30年前の1994年に、「ポケベル」のカナ表示サービスが開始されたという史実(と言うほど大げさなものではないが…)を知った。もっとも、「ポケベル」自体を知らない層が社会の主流となりつつある今、既に妙齢となっているに違いない当時の女子高生らが、プッシュホン(←ほぼ死語)の貧弱なインターフェイスを通じて、ポケベルのチープな液晶画面にメッセージを素早く送るスキルを“マッハ打ち”などと称していたというささやかなエピソードを含めて、一連の知識が、21世紀を生きていく上でのライフハックとならないことは語るまでもないだろう。

 仕事柄、比較的早期の段階から「ポケベル」を持たされた身としては、カナ表示サービスの追加が日常の業務に大きな変化や改善を与えるものではなかったため、技術的なエポックを、すっかり忘れていたようだ。ベルが鳴ったら、とにかく近くの公衆電話や一般電話から直属の上司に電話を入れ、何が起きたのかの確認と、自分は何をすればいいのかの指示を仰ぐというのが鉄則だったからだ。通常は、こちらが出稿した原稿の不明点の確認や、急に入った記者会見の時間や場所の連絡等であったが、本屋や喫茶店で道草をとっていた時、見透かされているのかのように通知音とバイブレーションが“協奏”し、慌てて上司に問い合わせると、「おぉ、スマン。お前と△◇▼の呼び出しを間違った」と、デジタル化の最初期の時点で既に乗り遅れていた御仁のミスに巻き込まれたりしたこともあった。

 

ポケベルが鳴らなくて

ポケベルが鳴らなくて

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 「ポケベル」という片方向通信端末の妙味は、少なくとも当時のマスメディア業界の現場においては、発生した出来事(ニュース)の重要度を推し測れるバロメーターになっていた部分にあったと、個人的には感じている。各社の記者がそれぞれ携帯する「ポケベル」が規則性もなく、散発的に鳴る日は何もない“平常運転”、テレビ局の記者連中のそれが騒がしい時はやや大きめの事件・事故や災害(それも絵になるものが中心)が起きた時と相場がほぼ決まっていて、経済部の記者連中は高みの見物を決めていることも多かった。

 ところが、今でも忘れないがその「ポケベル」が、ほぼ一斉に“共鳴”した日があった。1993年1月6日の夜のことである。当時、筆者は、運輸省(現、国土交通省)の5階にあった記者クラブで、本物の記者には到底及ばない見習いの“トロッコ”として、日々雑文の制作に追われていた。令和の世となってもフレームは変わっていないと思われるが、役所では月曜日と木曜日の午後に事務次官の定例会見が、火曜日と金曜日の朝に所轄大臣の定例会見が催される。この年は仕事初めの4日を何事もなく終え、続けて迎えた5日の朝の定例会見。大野明運輸大臣が普段の寡黙さとは違って珍しく、質疑応答の最後に、「新年に当たり、記者クラブ諸氏との懇親と意見交換を行いたい。ついては、明日夜などは空いているだろうか」と、記者クラブ側の幹事社(月替わりでメディア各社がクラブ代表を務める)に相談を寄せてきた。

 政府・与党の疑似諮問機関へとすっかり堕ちてしまった今日の記者クラブと異なり、当時は、ギリギリの線ながら独立意識と批判精神がクラブ運営の軸として残っており、大野大臣の申し入れを幹事社が一旦預かった後、臨時のクラブ総会を開いて各社の見解を集約したように記憶している。そして結論から先に述べれば、懇親会のオファーを敢えて拒む理由は見当たらないとのことに至り、翌6日夜、運輸省からも比較的近い赤坂の中華料理店において、基本的にはオフレコという形での懇談会を開くことになった。

 さて、その6日も日中は、大きなニュースは発生せず、18時頃から各社の記者が三々五々、会場となった中華料理店に集まった。参加予定者がほぼ揃ったところで大臣官房長の司会のもと、まずは大野大臣の挨拶が、続いて幹事社側の返礼があった。饗されたのはクラゲの前菜から始まる正統なコース料理で、乾杯の挨拶の後、10分もしないうちにビールと紹興酒で顔が真っ赤になってしまう記者もいた。よくある新春の宴であった。

 異変が起きたのは、30分くらい経ったころであろうか。突然、フジテレビの女性記者の「ポケベル」が鳴った。彼女の端末の液晶画面にどのようなメッセージが出ていたのかはもちろん知る由もなかったが、緊急だということだけは「えっ」とばかりに表情を変えたことから想像できた。そして、中華料理店に備え付けの公衆電話に走っていった。それから30秒もしないうちに、今度はTBSと日テレの、さらに一瞬の時間差をおいてテレ朝の記者の「ポケベル」が鳴り、やはり一目散に会場を出ていった。そうこうしているうちに今度は、新聞各社の社会部の記者たちが同様に、「ポケベル」の呼び出しに応じて会場を出ていった。

 明らかに異常事態である。大きな出来事が起きたに違いない。ところが、一連の動きを冷静に見つめている人々もいた。大野大臣以下、役所の幹部職員たちである。大臣に至っては、秘書官とともにおいしそうに「エビチリ」をつまんでいた。官房長は能面のような表情を浮かべながら、食べかけの中華料理が目立つ宴会場全体を眺めていた。筆者が座っていた円卓も奇妙な静寂に包まれた。フジの記者が飛び出していって2分くらいした頃である。隣に座っていた仲の良かったテレ東の記者の「ポケベル」が鳴った。彼もまた、端末のメッセージを見るや、やはり「えらいこっちゃ」と言って出て行こうとする。そこを捕まえて、「何が起きたの?教えてよ」と問い掛けると、「皇太子だよ、ご成婚内定。雅子さま。『ワシントンポスト』が報じた」と、そのまま新聞のヘッドライン(見出し)に使えそうな言葉を残して本社に向けて走っていった。「今晩は、徹夜だな」との独り言とともに……。結局、“ご成婚報道”に直接的な関りがない経済部の記者たちだけが残された。

 

エビチリ

こんなエビチリが円卓の上に残された…

 さて、聡明な読者ならば既にお分かりであろう。記者クラブは、まんまと大野大臣らの「策」に嵌ったのである。オフレコ懇親会をエサに記者の動きを封じ込め、婚約報道が一気に過熱することがないように謀ったのである。聞けば、その前日の閣議で婚約内定を内閣として了承。その上で、公式発表を行うまでは厳重な箝口令を敷くことにし、内定の事実を記者連中に気づかれないよう、大臣は各々努力するように海部俊樹総理から命じられたという。その試みは、ほぼほぼ成功したかに思えたに違いない。宮内庁記者クラブでの報道協定が事前に成立していた上に、閣議決定の内容も漏れてはいなかったからだ。意外なところに、伏兵が現れるまでは。

 そう。報道協定からも、記者クラブの縛りからもフリーだった米国の大手メディアが、小気味よいくらいに日本でしか通じないローカルルールを無視して報じてくれた瞬間、政府側の目論見は潰えることになった。同時に、抑圧されていた記者クラブの側も、右斜め上の方向に「覚醒」した。その結果がどうであったのかは、当日の夜から始まった「雅子さま」を巡る洪水のような祝賀報道を記憶している向きには理解していただけよう。

 かねがね、日本人の行動の不思議な点は、ルールを皆が守っているうちは自動的、盲目的にそれに従うものの、一旦誰かに破られると、そのルールが本質的に宿していた合理性や妥当性をも捨て去って混沌と過当競争のカオスの中に嬉々として飛び込んでいくことにあると感じているのだが、この時もまさにそうだった。江戸後期、普段はお上にへいこらしているくせに、ちょっとしたきっかけで「ええじゃないか」運動を各地に頻発させた民族のDNAは、文明開化を経ても、まったく損なわれていないと考えざるを得ない。いずれにせよこの時は、「ポケベル」が、いわば“ええじゃないか報道”への号砲となったのである。

 なお、大野大臣はこの年の7月に行われた衆院選で落選した。2年後の参院選で復活当選を果たしたものの、翌96年に、急性心筋梗塞で亡くなった。父・大野伴睦と似た迫力ある顔つきが特徴だったが、政治家としては「小粒」と言わざるを得なかった。そして明の次男の大野泰正は周知の通り、今春、自民党安倍派の裏金問題を巡り、東京地検特捜部から政治資金規正法違反の容疑で在宅起訴されている。これもまた、「売り家と唐様で書く三代目」の変奏曲であろうか。

 いずれにせよ、時の流れはテクノロジーを補助線に据えると残酷さがより増すようで、足元、隆盛を極めるスマホ(一昔前は高機能携帯電話端末との注釈を付けていたなぁ)も、30年も経ったころにはレガシーなデバイスとして、一部の好事家に語られる対象になるに違いない。言い古された表現だが、諸行無常そして光陰矢の如し。

 

つい此間のようなもの

Obrigadoが言えなくて…

 往年のフランス映画に登場する美男・美女の筆頭格と言えば、アラン・ドロン(Alain  Delon)とカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)ということで、昭和世代の異論は少ないのではと思われる。巷間に伝わるところによると、アランはどうやら健康状態が思わしくないようで、一方のカトリーヌは新たな映画の撮影のために来日するほど元気なようだ。

 

 この2人が出演した映画に、『リスボン特急』(1972年)という作品がある。原題は「Un flic=おわまり」で、さすがに2大人気俳優の共演だと訴求してもそのままでは売れないと日本の配給会社も考えたのだろう、作中のクライマックスシーンに登場するフランス・パリ~ポルトガルリスボン間を走る夜行列車に着目し、さもそれらしいタイトルを冠した。当時のポルトガルは周知の通り、アントニオ・サラザールと後継のマルセロ・カエターノによる独裁制エスタード・ノヴォ」が続いており、多くのポルトガル人が貧困や政治的迫害を前にして、この夜行列車を使ってパリに職を求め、あるいは逃れた。映画自体は、どう好意的に解釈しても名作とは呼べないレベルと言わざるを得なく、人々の口コミも今一つの感がある。ただし、アルメニアと並んで“欧州の捨て子”と呼ばれた当時のポルトガルの閉塞感と西側諸国のなかにおける立ち位置というものは上手くとらえていた。

 

 

 この見捨てられたイベリア半島の端っこ、地図で見るとスペインのおまけのような共和国に「カーネーション革命」(別名、リスボンの春)が起きたのが、映画の公開から1年半ほどが経過した1974年4月25日だった。まさに、半世紀前の今月のことになる。記憶力には少々の自信があると自負している方なのだが、テレビニュースでそれを見知ったという記憶はまったくない。然らばと、当時の新聞の縮刷版を辿ってみると、パリ特派員が「リスボンからの報道によれば、」といった情報ソースを引用する形で翌日付けの紙面のベタ記事で、カエターノが拘束され、国軍が権力を掌握したと報じていた。日沈む国への関心が薄かったと言えば、それまでだろう。日出ずる国にとっては、前年に始まった石油危機へのあたふたが続き、外へ関心を寄せる余裕などなかったとも想像できる。さらに事実上の無血革命だったということもあり、翌日以降の報道でも紙面が大きく割かれることもなく、やがて、他の国際ニュースに上書きされて、人々の記憶から消えていった。

 

 初めてポルトガルを訪れたのは、リスボンの春から18年が経過した1992年のことだった。成田からモスクワ、マドリッドを経由し、ヘロヘロの体で首都・リスボンに辿り着いた。国内の政治は、革命後の反動期を経てようやく安定し、国民の生活も、EC(ヨーロッパ共同体)からの補助金等もあって大きく向上をみている頃だった。それでも、人々の服装や髪形などはパリのそれと比較すると明らかに劣っており、大西洋の反射光も含んでいると思われる圧倒的な陽光が、逆に周回遅れぶりを際立たせていた。この時、リスボンの滞在はわすが4日間に過ぎなかったが、隣国スペインの宗教建築物等が示す常人を圧倒するような威圧感、イベリア半島スペイン語の音感がもたらす完成された冷たさに対して、ポルトガルのそれらは、敢えて例えれば、日本語由来の“Kawaii”にも通じる互譲と温かさを帯びた手作り感が前面に出たものだった。

日沈む国のリスボンの夕暮れ。

人々にはなお、貧しさが見られた。

「一寸の虫にも五分の魂」と言っては失礼だということを承知の上で、不遜にも、何百年にわたる大国スペインの圧力下でも、ほぼ一貫して独立を維持できた理由の一つが分かったような気がした。とどのつまり、青かったのだ。ただし、その秘密を深く知りたいという思いは強く、帰国後、東京・六本木にあったポルトガル人夫妻が個人経営していた語学教室「ポルトガル文化センター」の門を叩いたのだった。

 

 しかしその結果はと言うと、残念ながら、過去の人生で取り組んだあらゆる習い事と同様に、「ポルトガル文化センター」での語学の習得は、不十分なものに終わった。仕事の多忙が重なり、幾度か授業を休んでしまうと、とたんに行きづらくなった。教室のドアの前まで到着しながら、そこで引き返したこともあった(ドアを開ける勇気がなく、その場に立ち尽くす夢をいまでも見るほどだ)。こうして、常に親身に生徒に接してくれたポルトガル人夫妻先生との関係も自然消滅していった。その後も時折、「ポルトガル文化センター」とこの夫妻先生のことを想起することがあったものの、日常にかまけ、気が付けば20年の月日が経っていた。令和の世に変わり、風のうわさで、「ポルトガル文化センター」を畳んで帰国したらしいと知り、HPなども消えていることを確認した時、不義理の大きさと自身の至らなさに地団駄を踏んだ。そうしたなか、唯一の慰みとなりそうなのは、この夫妻先生、すなわちマリア・マヌエラ・ダ・シルヴァ・アルヴァレス氏とジョゼ・マリーニョ・アフォンソ・アルヴァレス氏の長年にわたる日葡交流への貢献に対して、日本政府が2020年、瑞宝小綬章を2人に贈り、その模様を在ポルトガル日本国大使館が報じたことだろう。写真と動画で、両先生の近影を知ることができたのである。果たして、歳月は等しく2人の上を通過したものの、笑顔は不変であった。

https://youtu.be/gc8_UuTWViU

 ポルトガル語で「ありがとう」はobrigado/obrigadaという。obrigar(強要する、義務付ける、背負わす)という他動詞の受け身形で、他人からの好意を受けて、私は好意を背負わされたという意識が謝意へと発展したのだと、「私、南蛮人のように日本に流れ着いたのです」と茶目っ気たっぷりに自己紹介するのが常だったジョゼ先生より教わった。つい此間の出来事のように思い出す。できることならば、カーネーション革命から50年という大きな節目に、まっさらな気持ちで、2人の授業を受けたかったと改めて思う。

 

Heysei! JUMPのようなもの

勝手にゲシュタルト崩壊しない!

 俄かに、若い世代の昭和ブームを語るのがブームらしい。64年に及ぶ当該時代の後半3分の1ほどを経験した身からすると、昭和の醍醐味は、軽工業国家のくせして国としての自我を病的に増長させた挙句、全世界を相手に始めた大戦争にこっぴどく負け、とりあえず土下座をして謝ることにした1945年8月を重心点とする前後15年くらいにあると思うのだが、いわゆるZ世代の関心は、各種報道によると、当然ながら、あまりそこにはないようだ。むしろ、平成不況の予兆とも言える80年代以降の低成長時代が定着し、モノが満ち足り、そのフレームの中からあふれて行き場を失った最後のエネルギーが作り出した文化・風俗・技術・デザイン・トレンドの方に、熱視線が送られている。当時の我々が、クールでポップで最先端なものと認識していた事象が、すべからく、“ぶさかわ”ならぬ“ふるかわ”(ちょっと古くてかわいい)なものへと変容し、刺さっているようである。

 

 しかし、そんな彼らが、昭和レトロだからといって、絶対に受け入れないであろうと確信するものが2つある。「痰壺」と「畳敷きの賃貸アパート」だ。前者については、平成17年に結核予防法施行細則が改正されるまで、政府が、結核菌の温床となる痰や唾を撒き散らかさないよう、駅など人の集まる場所に痰壺の設置を義務付けてきた関係で、記憶している昭和生まれ(但し、中期ロットまで)も多いことだろう。実際、平成の初期の頃になっても、山手線などのホームの柱のふもとには、上部に漏斗状の受け皿が付いたホーロー引きのご神体の壺(といっても旧統一教会のそれではない)が置かれており、電車を待つ間、おっさんが「カッー、ペッ」とやる場面を冬季を中心に、しばし目にすることができた。達人になると、普通に歩きながら漏斗の中央に空いたシュバルツシルト面に向けてストライクをはめることができる半面、ビギナーがイキってそれを真似たりすると、折からホームに侵入してきた電車の風圧により、口から勢いよく放出された薄黄緑色の半ゲル状の物体がUターンし、図らずも、自身のズボンの裾に着弾するという香しい場面にも遭遇できた。もし、痰飛ばしの世界大会があったのなら、上位に食い込むこと間違いなしと思われる逸材に、筆者も学生の頃、日暮里駅でしばし出合ったことがある。だが残念哉、上記の法改正により瞬く間に世の中から痰壺は姿を消し、痰飛ばしのスプリンターたちもその実力が称えられることなく、静かに、プラットフォームという晴れ舞台を去っていった(ここで、中島みゆきの「地上の星」が流れ出す)

 

地上の星

地上の星

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 痰壺(←しつこい。食事中の読者には申し訳ない)の消滅を遺憾と称するならば、畳敷きのアバートの激減はジェノサイドと例えても過言ではないだろう。昭和の最末期に至るまで、独り暮らし用の賃貸物件と言えば畳敷きの仕様が当たり前であった。筆者も実家を出て、初めて暮らした都内某所のアパートは、「サンロイヤル●●山」というヤマザキパンの食パンのような枕詞が冠された物件であったが(あっ、今年も点数券を集めて「白いお皿」をもらわないと)、こちらも残念哉、言葉(=シニフィアン)の指し示す意味を最大限に好意的に解釈しても、「サン」にも「ロイヤル」にも似つかない(=シニフィエ)北向きの木造2階建ての物件だった。身体をL字形には伸ばせないそれこそ壺のような風呂に、ガスが一口しかない台所、そしてお決まりの湿った畳が敷かれた6畳1間という構成で、それでも駅チカ物件とあって家賃は月7万5000円もした。せめてもの「抵抗」として、ベルギー産のカーペットを奮発して畳を隠してみたものの、程なく、酔って夜間に転がり込んできた悪友の寝ゲロに遭って泣く泣く、燃えないゴミとしての廃棄を強いられた。今度引っ越す時は、フローリングという名の板の間のマンションに移るぞと、心に固く誓うきっかけとなったことは、ここで改めて語るまでもないだろう。

 

 ところが、である。2年後に移り住んだ「アムール●●寿」という物件は、接道義務をギリギリでクリアした立地であったということが暗示するように、これまたamourという言葉が裸足で逃げて行きそうな有り様だった。念願が叶ってフローリングの間へとステップアップはできたものの、日陰に強いはずのアイビーすら枯れるという日照条件であったのだ。すると何が起きるのか? 聡明な読者にはお判りであろう。tinea pedisの発症である。白癬菌の奴らにとって、日差しの乏しい板の間は格好の寒天培地となった。そこを素足で歩くという行為は、丸腰のままウクライナ戦線を目指すロシアの愚かな志願兵のようなものである。待ち受けるのは圧倒的な後悔の念に他ならない。ちなみに「アムール●●寿」の102号室でお近づきになったtrichophyton fungusは、今もなお、筆者の下肢の末端部分に営巣地を築いている。畳表に使われるイ草には、白癬菌などに対する抗菌機能があると知ったのは、それからしばらく経った頃。「フローリングの増加で、実は水虫薬が伸びているんですよ」と、にやりと笑った某製薬会社の広報氏の口からだった。

 

 してみると、昭和から平成へ、我々は結核菌には辛勝したものの、白癬菌には惨敗し、さらに付け加えれば、令和の世には菌より下等な新型コロナウイルス徳俵寸前にまで追い込まれたということになる…………。あれ、“ふるかわ”を格調高く語るはずだったのに、今や、何を書こうとしているのか分らなくなってきたぞ…。これでは作画崩壊ならぬ作文崩壊ではないか。予期せぬゲシュタルト崩壊に直面してしまったようだ(今度は、加古隆の「パリは燃えているか」が流れ出す)。うーむ。

 

 

 言い訳じみたことを述べると、実は昔から、春先は、メンタルもフィジカルも集中力も不思議と弱くなる傾向がある。しかも今年は眼球の劣化も加わって、なかなか厳しいものを感じている。あるいは男の更年期障害か? はたまた、新規認知症治療薬「レケンビ」の投与がいよいよ必要になってきたのかも知れない。いずれにせよ、結論に向け、書き連ねることがしんどくなってしまった。痰壺と水虫についてはもっと深掘りしたい気持ちがあるのだが、そろそろこの駄文を打ち切る潮時が来たようだ。

 

 オレタチの昭和がホビーとして消費されていく時代。しかもこのところ、昭和を代表したいろんな人たちが相次いでこの世を去っていく。昨春とは質的に違う寂寥を前にして、「咳をしても 一人」(尾崎放哉)、あるいは「からす泣いて 私もひとり」(種田山頭火)か。

 

                                  (おわり)