小鳥遊 遊鳥の裏通り

La Vérité sortant du puits.

つい此間のようなもの

Obrigadoが言えなくて…

 往年のフランス映画に登場する美男・美女の筆頭格と言えば、アラン・ドロン(Alain  Delon)とカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)ということで、昭和世代の異論は少ないのではと思われる。巷間に伝わるところによると、アランはどうやら健康状態が思わしくないようで、一方のカトリーヌは新たな映画の撮影のために来日するほど元気なようだ。

 

 この2人が出演した映画に、『リスボン特急』(1972年)という作品がある。原題は「Un flic=おわまり」で、さすがに2大人気俳優の共演だと訴求してもそのままでは売れないと日本の配給会社も考えたのだろう、作中のクライマックスシーンに登場するフランス・パリ~ポルトガルリスボン間を走る夜行列車に着目し、さもそれらしいタイトルを冠した。当時のポルトガルは周知の通り、アントニオ・サラザールと後継のマルセロ・カエターノによる独裁制エスタード・ノヴォ」が続いており、多くのポルトガル人が貧困や政治的迫害を前にして、この夜行列車を使ってパリに職を求め、あるいは逃れた。映画自体は、どう好意的に解釈しても名作とは呼べないレベルと言わざるを得なく、人々の口コミも今一つの感がある。ただし、アルメニアと並んで“欧州の捨て子”と呼ばれた当時のポルトガルの閉塞感と西側諸国のなかにおける立ち位置というものは上手くとらえていた。

 

 

 この見捨てられたイベリア半島の端っこ、地図で見るとスペインのおまけのような共和国に「カーネーション革命」(別名、リスボンの春)が起きたのが、映画の公開から1年半ほどが経過した1974年4月25日だった。まさに、半世紀前の今月のことになる。記憶力には少々の自信があると自負している方なのだが、テレビニュースでそれを見知ったという記憶はまったくない。然らばと、当時の新聞の縮刷版を辿ってみると、パリ特派員が「リスボンからの報道によれば、」といった情報ソースを引用する形で翌日付けの紙面のベタ記事で、カエターノが拘束され、国軍が権力を掌握したと報じていた。日沈む国への関心が薄かったと言えば、それまでだろう。日出ずる国にとっては、前年に始まった石油危機へのあたふたが続き、外へ関心を寄せる余裕などなかったとも想像できる。さらに事実上の無血革命だったということもあり、翌日以降の報道でも紙面が大きく割かれることもなく、やがて、他の国際ニュースに上書きされて、人々の記憶から消えていった。

 

 初めてポルトガルを訪れたのは、リスボンの春から18年が経過した1992年のことだった。成田からモスクワ、マドリッドを経由し、ヘロヘロの体で首都・リスボンに辿り着いた。国内の政治は、革命後の反動期を経てようやく安定し、国民の生活も、EC(ヨーロッパ共同体)からの補助金等もあって大きく向上をみている頃だった。それでも、人々の服装や髪形などはパリのそれと比較すると明らかに劣っており、大西洋の反射光も含んでいると思われる圧倒的な陽光が、逆に周回遅れぶりを際立たせていた。この時、リスボンの滞在はわすが4日間に過ぎなかったが、隣国スペインの宗教建築物等が示す常人を圧倒するような威圧感、イベリア半島スペイン語の音感がもたらす完成された冷たさに対して、ポルトガルのそれらは、敢えて例えれば、日本語由来の“Kawaii”にも通じる互譲と温かさを帯びた手作り感が前面に出たものだった。

日沈む国のリスボンの夕暮れ。

人々にはなお、貧しさが見られた。

「一寸の虫にも五分の魂」と言っては失礼だということを承知の上で、不遜にも、何百年にわたる大国スペインの圧力下でも、ほぼ一貫して独立を維持できた理由の一つが分かったような気がした。とどのつまり、青かったのだ。ただし、その秘密を深く知りたいという思いは強く、帰国後、東京・六本木にあったポルトガル人夫妻が個人経営していた語学教室「ポルトガル文化センター」の門を叩いたのだった。

 

 しかしその結果はと言うと、残念ながら、過去の人生で取り組んだあらゆる習い事と同様に、「ポルトガル文化センター」での語学の習得は、不十分なものに終わった。仕事の多忙が重なり、幾度か授業を休んでしまうと、とたんに行きづらくなった。教室のドアの前まで到着しながら、そこで引き返したこともあった(ドアを開ける勇気がなく、その場に立ち尽くす夢をいまでも見るほどだ)。こうして、常に親身に生徒に接してくれたポルトガル人夫妻先生との関係も自然消滅していった。その後も時折、「ポルトガル文化センター」とこの夫妻先生のことを想起することがあったものの、日常にかまけ、気が付けば20年の月日が経っていた。令和の世に変わり、風のうわさで、「ポルトガル文化センター」を畳んで帰国したらしいと知り、HPなども消えていることを確認した時、不義理の大きさと自身の至らなさに地団駄を踏んだ。そうしたなか、唯一の慰みとなりそうなのは、この夫妻先生、すなわちマリア・マヌエラ・ダ・シルヴァ・アルヴァレス氏とジョゼ・マリーニョ・アフォンソ・アルヴァレス氏の長年にわたる日葡交流への貢献に対して、日本政府が2020年、瑞宝小綬章を2人に贈り、その模様を在ポルトガル日本国大使館が報じたことだろう。写真と動画で、両先生の近影を知ることができたのである。果たして、歳月は等しく2人の上を通過したものの、笑顔は不変であった。

https://youtu.be/gc8_UuTWViU

 ポルトガル語で「ありがとう」はobrigado/obrigadaという。obrigar(強要する、義務付ける、背負わす)という他動詞の受け身形で、他人からの好意を受けて、私は好意を背負わされたという意識が謝意へと発展したのだと、「私、南蛮人のように日本に流れ着いたのです」と茶目っ気たっぷりに自己紹介するのが常だったジョゼ先生より教わった。つい此間の出来事のように思い出す。できることならば、カーネーション革命から50年という大きな節目に、まっさらな気持ちで、2人の授業を受けたかったと改めて思う。